2022年10月30日 説教テーマ「あわれむ神の救い」

こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。 ローマ9:18 ローマ人への手紙 講解説教 №51 ローマ9章14-18節 自分自身の救いに対する確かさや、未信者が救われるかどうかの不安や疑問があったとしたら…パウロ自身も同胞の救いに対して同じ思いを抱いていました。その彼が行ったことは語られているみことばを真剣に問うことでした。「約束のみことばはこうです」(9)、「…と書いてあるとおりです」(13)と。9章だけでも7か所も聖書に尋ねています。私たちもそうしたいのです。逆に、みことば以外に尋ねることをしないのです。パウロはみことばを根拠に、神に不正は絶対にないと断言します。神は「自分のあわれむ者をあわれむ…」と聞くと、神の選びは自由過ぎと、取る人がいるかもしれません。それは出エジプト記33章19節の引用で、そこで語られた背景と流れを汲み取るならば、そうではないことがわかります。エジプトから救い出されたあと、約束の地への歩みの先頭に立っているモーセに神が語っているのですが、神は一緒に行かないと仰せられたのです。実は、イスラエルの民は大罪を犯した直後です(32章)。偶像をつくり、拝み、みだらに戯れたことで神の怒りに触れたのです。その神に対して、民と一緒に行ってくださるように必死に願っているモーセがいるのです。神は思い直されました。それでもモーセの嘆願は止まりません。民に対する恵みと好意をはっきり示してくださるように、あの大罪を承知で図々しくも願うのです。いや、逆です。神のご好意がなければ、民は一歩たりとも進めない、生きていけないことをわかっていたのです。「…あわれむ者をあわれみ」そのような流れの中で、語られた神のことばなのです。救われ得ない罪人を神は選んで救いに与らせてくださるのです。これは神の一時の感情でできないこと、神の選びの計画の確かさです。救いは私たちにとって奇蹟です。神の救いの選びに不正がないことを確認するために、民のエジプト救出に激しく反対したパロ王のことを引用しています。これについても、聖書から(出エジプト記の文脈から)、神が「人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされる」ことが、ご自身の救いのご計画の実現のためであることを尋ねてください。そして、パウロのよう に、なおも同胞の救いを願い続け、神に根拠を置くところの、自分自身の救いの確かさを持ってください。