2022年11月13日 説教テーマ「つまずきの石」

それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。 ローマ9:33 ローマ人への手紙 講解説教 №53 ローマ9章24-33節 パウロはユダヤ人の救いに関する疑問や不安に対して答えていきます。大事なことは神が召したという事実です(24 節)。ユダヤ人か異邦人かということが先に大事なのではなく、神がその人を呼ばれたかどうかが一番大事です。創造者であり支配者である神のご意志をだれも拒むことの出来ない神の決断が「召す」ということです。これは誰も動かすことのできない神の事実です。それを動かそうとするのが人の理屈です。パウロはこの根拠を旧約聖書から 3 カ所述べました(25-29 節)。そして、ユダヤ人たちの疑問と不安に対する最終的な結論を30節以降で述べています。「義を追い求めなかった異邦人は義を得ました」これが神の不思議で人が理論的に考えても答えが出ないものです。この義は人間のわざや功績によらない信仰の義です。得るに値しない異邦人が信仰によって得た!この「得た」は「つかんだ」という強いことばが使われています。その救いを手にしたのか、していないのかわからないようなものではないということです。救いの確信は人の心の持ちよう、信仰生活の在り様から来ません。神から来ます。一方で「イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。」義の律法とは十戒を中心としたモーセによって授けられたもので、それを完全に行う者に義が約束されたものです。かつてパウロも、その律法を守ることにおいて「非難されるところのない者でした」と本人が言っていました。それを完全に守る…例えば「殺してはならない」のイエスの解釈は、能無し、ばか者と言っても、その戒めを破ると極めて厳しいものがあります(マタイ 5:22)。そしてその戒めの真意は、隣人を愛しなさいということです。どこまで?敵を愛するに至るまでです。完全に守るとはそこに到達するまでです。彼らが義に到達できなかったのは信仰によって追い求めること、すなわち、自ら到達できないことを認め、イエス様にお任せすることをしなかったからです。彼らはイエス様につまずきました。すべてをこの方に任せて大丈夫な「かしら石」を信頼しなかったからです。しかし彼に信頼する者は失望させられることがありません。