2022年11月20日 説教テーマ「無知の熱心、正しい熱心」

私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。 ローマ10:2 ローマ人への手紙 講解説教 №54 ローマ10章1-4節 パウロはユダヤ人の救いを祈りながら、彼らがキリストに敵対し、福音につまずいている事実を見つめています。そのつまずきが、神への信仰をないがしろにしていることによるものではなく、むしろ神に熱心に仕えることで生じている、なんとも厄介な問題です。ユダヤ人の熱心さは、その歴史を見ても特別なものがあります。パウロ自身もとても熱心な人でした(ガラテヤ1:14)。それは律法そのものへの熱心です。パウロは熱心さそのものを批判していません。その熱心が知識に基づくものでないことを問題にしています。熱心に信じていることがその教えの正しさを保証するわけではありません。パウロは知識に基づく熱心とただの熱心の違いを、神の義に従うか自分の義を立てるかという、神の義と自分の義とを対比して教えています。自分の義とは、自分がした働き、功績がまず前提にあります。「私はこれこれを守り行いましたので義をください」と義を分け前、報酬として受け取ろうとします。神の義とは、神から与えられるほかない義です。律法を完全に行うことができるなら義を得られますが、「殺してはならない」一つとっても誰も守ることができません。なぜなら神が要求していることは、殺すという行為の本質のところであって、隣人を愛することだからです。そうすると、私たちは神の前に、これこれを守り行いましたと持って行くことのできるものは何一つないということになります。それを聖書が明らか明言しています(ローマ3:23、6:23)。人が律法を完全に守って義を得ることが不可能であるからこそ、イエスキリストが律法を終わらせられたのです。終わらせる方法は十字架です。神である方がいのちの犠牲を十字架で払うために、人になられました。御父は御子キリストをのろい、さばき、捨てられました。そのおかげで人の罪はもう責められることはないのです。私たちの責任は一つ、そのイエスを信じることです。人は信じること以上に正しいことをすることは出来ません。なぜなら、キリストが律法を終わらせられた或いは完成されたので、そのキリストよりも正しいことが何一つ存在しないからです。