2022年11月27日 説教テーマ「イエスを信じるとは(1)」

では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。 ローマ10:8 ローマ人への手紙 講解説教 №55 ローマ10章5-8節  ユダヤ人の熱心は知識に基づくものではないと、パウロは彼らの無知な熱心を否定しました。しかし本当の問題は律法本来の意味、その目的を見失ったところにあります。聖書は「キリストが律法の目標であり」と4節で述べています(別訳参照)。その目標を違えてしまったのです。十戒を守ることは救いにおける条件ではないのに、彼らは戒めを守ることで神に認められ、救いを得られると、熱心に守ろうとしました。十戒は、罪から贖い出された者が、その救いの恵みに基づいて、恵みに応え、神の民として生きるための指針です。その指針に従うにあたって大切なことは、戒めによって罪を自覚させられること、また戒めは目標であるキリストへ導くものだと認識することです。ユダヤ人の律法理解は、天の高みにあって、それを行うために自分が天にのぼっていくかのように思っています。既に天から神のことばを携えて、この地に降りて来てくださったお方がおられます。だから私たちは天に上る必要はなく、もしそれをすればキリストを天から引き下ろすことになります。またそれはキリストの救いのわざを否定することでもあるのです。今や律法は天にまで行って取って来なければ行うことができないような難しいものではありません。キリストが天から来られたのですから、この方を信じる人が律法を行うことができるのです。また、キリストが地の奥底である地獄にまで下ってくださったので、私たちが自分で救いを得るために下る必要はありません。そのキリストを信じれば良いのに、なおも自分の力で義を得ようとするなら、地の淵にまで下られたキリストの十字架を否定することになります。私たちは自分の正しさで天に上っていくこと(義を獲得すること)はできませんし、自分の罪深さに絶望し、地の奥底に下っていくこともできません。つまり救いにおいて、何一つ手出しできず、その資格も力もないのです。ただ一方的に与えられた神の恵みによって生かされることしかできません。み言葉 (キリスト)はあなたの近くにあるのです。キリストが与えるみ言葉を聞きながら歩むことで、傲慢に天に上ろうとするのではなく、絶望して地の底に陥るのでもなく、キリストに導かれながら歩めばよいのです。