2022年11月6日 説教テーマ「あわれむの器」

ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。 ローマ9:22 ローマ人への手紙 講解説教 №52 ローマ9章19-23節 『神にはご自分の望みどおりを行う権利があるというなら、だれも神の計画に逆らうことはできないということだから、神は人を責めるべきではない。何をしても自分の人生を自分で変えることが出来ない人間は、将棋かチェスのようなもの』という新たな疑問が出て来る人がいます。パウロはこれに対する説明はせず、人間とは何者か?ということを呼び掛けています。罪の汚れと弱さと無知でしかない人とは神とのかかわりにおいてどういう存在なのか、そんな者が神にあわれまれ、呼ばれたのであったら、栄光を神に帰し、恐れとおののきをもって神を礼拝する者でしかないのです。神と人、それは創造者と被造物の関係です。陶器師と陶器のたとえで教えています。陶器を作る者が粘土をそのままにしておいたら、それは失われてしまいます。神に対して故意に罪を犯し反逆したのが土のかたまりにたとえられている人間です。その罪人を神が何もしないでそのままにされたとしても神は正しく公平な方です。しかし神は少数の罪人たちをご主権により選び、お救いになりました。神はそうされる権利があると思われますか?22節でパウロが言っていることは、「神は悪人たちをただちに罰したとしても正しいとされるのに、そうする代わりに彼らに大きな忍耐を示してくださるのなら、だれが神を非難できるだろうか?」ということです。神が望んでおられることは、罪人を処罰されることで、ご自身の怒りと力を示されることです。しかし一方で罪人を忍耐しようとも望んでおられるのです。神がお怒りになるのは、最終的な審判に備えられた対象者たちです。神が彼らのさばきを決定したというよりも、神への故意の反抗を止めなかった結果です。そんな無価値な者に豊かな寛容をもって忍耐してくださる神がおられます。そのようなお方を非難されるでしょうか。そのような神への疑問、非難を持たないためには、神と人間、創造者と被造物の関係を、頭の理屈で考えないことです。それはむしろ信頼すべき事柄です。