2023年1月29日 説教テーマ「単なる希望、とこしえの希望」

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望をおいているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 Ⅰコリント15:19 Ⅰコリント15章12-20節  コリントに福音が伝えられた当時は、キリストの復活を目撃した弟子たちがまだ存在していましたし(6)、復活の事実の意義を教えられてもいました。それでも自分自身が死者の中から復活することは信じられませんでした。死者がよみがえる根拠がキリストの復活なのですが。パウロは「もし」と仮定法を使い、復活の真実さとそれを信じないことの愚かさを教えます。死者の復活がないとしたら、キリストの復活もないという理屈になります。そうすると、宣教で語る内容が実質のな いものとなってしまいます。十字架の死、葬り、復活のメッセージが無意味となります。信仰、すなわち主の教えに従って生きる信仰生活も無意味となり、最もむなしい生き方となります。また、もしキリストが復活されなかったら、神に対して偽証をした者となります。もしパウロが事実でないことを語っているとしたら、「私はほんとうに見た」と言っておきながら、うそをついた、つまり神に逆らう証言をしたことになるのです。さらには、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、、その信仰はむなしく、今もなお罪の中にいる」ことになります。罪が赦されていないということです。罪の赦しはキリストの復活にかかっています。このことを考える時に、救いの範囲がどのようなものかを知らなければなりません。心が救われること、困窮した生活からの救い、悩みからの救い…それも救いかもしれません。しかし聖書が提供する救いは、罪からの救いです。罪と死は直結しています。罪があれば必ず死があります。その人間に対して、罪を背負って罪なき方が、罪ある者として死なれました。それは間違いなく私たちを罪から救いためです。イエスキリストが死者の中から肉体をもってよみがえったことは、罪の報酬である死に打ち勝ったということですから、死の大元である罪を粉砕したことになるのです。その方を信じるなら、罪が赦され、私たちも同じように復活するという理屈になります。しかし、もしキ リストが復活していないなら、罪の赦しもなければ、死人の中からの復活はもっとありません。その行き着く先は「滅び」です(18)。もし死者の復活がないとしたら、或いはそこに確信がないまま進むなら、どんなに喜んで信仰生活を送ることが出来ても、それは世にあって(地上のいのちにおいてのみ)キリストに単なる希望を置いているに過ぎないのです。それで死んだらすべてが無駄です。「もし…」もう仮の話は終わりです。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中 からよみがえられました。」(20)