2023年2月12日 説教テーマ「みことばを宣べ伝えよ~時が良くても、悪くても~」

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪てもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 Ⅱテモテ4:2  今は悪い時です。特に終わりの日とリンクしての悪い時であることを聖書は告げています(Ⅱテモテ3:1,2)。信仰者が「自分だけを愛し」神を愛すること、隣人を愛することを止めてしまうほどの悪さです。信仰者がそうであれば、自分だけを愛することが基本である未信者はもっと悪くなることになります。そのような状況でみことばを宣べ伝えることが出来るのでしょうか。重要なのは宣教の動機です。「宣教はクリスチャンに与えられた使命だから」ではできません。求道の重荷は動機になり得ますが、それだけでは足りません。「その(キリストの)現れとその御国を思って」(1)という動機ではじめて宣教が成り立ちます。終わりの日の大患難の前に、キリストが空中に来られて、既に眠っている信者を、そのとき生きている信者とともに引き上げてくださいます。そのとき、この世界の一切の支配~死の支配に至るまでです~から解放されます。それが「現れ」です。また、「生きている人と死んだ人とをさばかれるキリストの御前」に私たちは立つことになります(Ⅱコリント 5:10)。そこで報いを約束されます。報いの内容はルカ 19 章 17 節には町を支配するとあります。恐らくキリストが王の王となる千年王国で頂く褒美のようです。また、その報いは「各自その肉体にあってした行為に応じて」行われます。キリストがひとりひとりを良く見ておられるということです。そのことは皆さんにとってうれしいことですか、恥ずかしいことですか?それらを動機としてみことばを宣べ伝えます。「宣べ伝える」ということばは、王からその国民に布告が出たときに、それを伝え、宣告することを意味します。ですから、みことばはそのままを宣べ伝えるのであって、自分がどう思うかということは伝える必要はありません。それは権威ある王のことばに対して無礼となります。そのようにみことばは、宣言する要素と、教える要素があります。「寛容を尽くして教え」とあるように、教育していく側面が重 要になってきます。終わりの日における宣教は、これまでのものとは違います。特に宣教をする理由において、教会を建て上げるための宣教ではなく、信仰者がが健全な教えに耐えられなくなるから宣教するのです(3)。これまでにも増して、しっかりと、困難に耐えながら行うことが求められます。それを行う力は主が必ずくださいます。パウロがそれを証ししています(4:17,18)。