2023年2月19日 説教テーマ「正しい生活を送り、罪をやめよ」

目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。 Ⅰコリント15:34 Ⅰコリント15章29-34節 もし死者の復活がないのならという仮定の話は12節以降で既に語っています。29節以降で再び語ったのは彼らの不信仰を責めてのことです。コリント教会では死んでしまった人のために、その家族がバプテスマを受ける、「死者ゆえのバプテスマ」という聖書的根拠の全くないことをしていました。死者の復活に否定的なのに、死者のためにという矛盾に気づいていません。その矛盾は生活にそのままあらわれます。30節以降、パウロ自身の経験を織り交ぜながら、死者の復活がなければ倫理、道徳が崩壊することを述べています。パウロはユダヤ人たちとの律法理解の違いから、常に命を狙われています。エペソの町での経験を「獣と戦った」と表現しています。使徒19章にその出来事が記録されていますが、実際の獣は出て来ません。パウロの宣教により、大女神アルテミスを信仰していた人たちの多くが回心しました。そのためにアルテミス神殿の模型が売れなくなり、商売人たちが騒ぎ立ち、パウロのいのちが危険なほど、町中が大騒ぎになりました。このエペソの町の人たちを「獣」と表現しました。もし死者の復活がなく、人間的な動機で宣教の働きをしたのなら、何の得もないと言っています。『もしこの世がすべてで、復活がなかったとして、それでもクリスチャンであるほうが良い」とはパウロは決して考えないのです。復活の希望がなかったら、生きる限り好きなことをしようと、人間の倫理、道徳は崩壊するというのが聖書の主張です。コリント教会内には倫理崩壊に向かう考えの人がいました。ですから、パウロは悪影響を受けつつある信徒たちに「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」と命じました。重要なのは目をさますことです。つまり自分は死んで終わりなのではなく、必ず復活するという信仰に立つこと、それにより正しい生活を送ることができるようになり、罪から離れることが出来ます。「クリスチャンなのだから、正しい生活を送るべき!」は単なる倫理、道徳の教えとなってしまうので、気を付けなければなりません。「目をさまして…」は、「正気になって身を正しなさい。」(新共同訳)とも訳します。正気なのは放縦な生活か、死者の復活を信じる生活か?