2023年2月26日 説教テーマ「天に属する方のかたち(1)」

しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。 Ⅰコリント15:38 パウロは、死者の復活を否定する人たちのことを無知さゆえに「愚かな人」と言いました。恐らく彼らの理解力に合わせて、身近な自然界のたとえで、「どのようにしてよみがえるのか、どのようなからだで来るのか」ということについて教えました。まずは、畑に蒔く種についてです。蒔く物は種粒です。その蒔かれた種は後に芽が出て、茎や葉をならせ、つぼみが出て、やがて花を咲かせ、実を結ぶに至ります。最初に蒔いた種の形状は全く失われ(死んで)、その種とは違う形のもの(実)が出来ます。そこに神秘の事実があることも忘れてはなりません。種を植えた人が、種から実という劇的な変化を与えたわけではないのです。「しかし神は…お与えになりました」(38)とあるとおりで、それを神が計画、設計、創造を行っておられます。そこに神の主権を見ることができます。種と後のからだ(実)のたとえから「死者の復活もこれと同じと教えます。種は種です。私たちの今の肉体は今の肉体です。この肉体から復活のからだのことは考えられないのです。衰えていくこのからだから、永遠の生きることを類推してはならないのです。復活において与えられる新しいからだは、今の生活の延長にはないのです。そのことを種粒と実の違いから悟らなければなりません。種以外のほかの生き物を例にしても教えています。人間、獣、鳥、魚、皆からだ(肉)を持っていますが、皆違います(39)。天井のからだ、つまり宇宙にあるものと地上にあるものも違います。太陽、月、星もそれぞれ違う輝きです。それらも神のみこころに従って造られたもの、つまり神がお決めになり、そのご主権をもって造られました。神は、それぞれに様々な違ったからだをお与えになることが出来ます。*神の主権と力に、今のこのからだとは違う復活のからだを与 えられる根拠があるのです。私たちの今のこのからだは、種粒に相当するもので、朽ちるもの、卑しいもの、弱いものです。創世記を見ると、神が人を土地のちりで造られていることがわかります(創世記2:7)。つまり神ははじめから人を弱いもの、朽ちるものとして造られているということです。ただ、土地のちりだけでは生きる人とはなりません。そこにいのちの息を吹き込まれて、初めて人として生きるものとなったのです。人が死んだらちりに帰ります(伝道者の書12:7)。いのちの息の 存在をどう考えましょう?そのあたりに聖書が繰り返し語る死者の復活の事柄が隠されているのではないでしょうか。