2023年3月12日 説教テーマ「教会らしさ」

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。 Ⅰコリント12:3 Ⅰコリント12章1-4節  教会らしさとは、教会がいかに霊的存在であるかということです。コリント教会の「賜物の乱用」問題から、「ぜひ次のことを知っていただきたい」(1)と,教会らしさを教えています。神は救われた人たちに賜物を分け与えてくださいます。その賜物は霊的存在としての教会を成り立たせるものです。ところが、コリント教会の一部の人たちが、自分に与えられている「異言」の賜物を誇ったことで問題が生じました。ある人が誇ると、一方で高慢に陥り、他方でねたみや劣等感に陥りす。優れていると思う人は、そうではない人に自分と同じであるように求めます。違いを嫌がるのです。ここには「教会の中で、自分の考えと違う人とどうすべきか?」という大事な問題提起がされています。教会の一致は、一つの同じ賜物、同じ考えを持つことに見いだされるのではありません。すべての賜物の出どころ(源)である。聖霊を皆が持っているところに一致が見いだされるべきです(4)。教会の奉仕も皆違います。同じ奉仕をしていても、それをしている人によって違うのです。その私たちが共通して持っているものは、何事をするにも、同じ主のためにするということです(5)。働きもいろいろの種類があり、みな違います。しかしすべての働きをなさる同じ神が、それぞれのクリスチャンに働くための力を与えてくださるのです(6)。それらは教会全体が益になるために行います(7)このような教会らしさを、実際のからだにもたとえています。からだの各器官で不要なところは一つもなく、互いを必要とします。しかも比較的弱いと見られる器官がかえってなくてならないものとして存在しているのです。教会も同じです。それは弱い人が偉いとか、別扱いをしていると言うことではありません。からだを調和させるためです(24)。そういう絶妙な組み合わせになっているということです。「からだの中に分裂がなく、各部分がいたわり合う」(25)のです。これは御霊の働きで実現します。賜物は御霊のものです。その御霊が「イエスは主です」と告白させ、私たちは救われました。かつては、ものを言わない偶像のもとで、その逆の告白をする者でした。聖霊によらないからです。コリント教会の混乱はかつての偶像の配下のことのようです。信仰的に見えて、キリストが高められていません。教会らしさは、最終的にキリストが高められることです。