2023年3月19日 礼拝説教「教会らしさ ~実践編~」

語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです… Ⅰペテロ4:11 キリストが高められているかで、その教会らしさが決まります。きょうはその実践編ということで、教会が「武装」(1)することが求められています。というのは、万物の終りがすでに始まってしまっているからです(いまだ終わりではない)。終末の教会らしさが必要となります。それは「互いに~し合う」というクリスチャン同士の交わりにおいてです。イエスは世の終りの前兆の一つに、クリスチャンたちの愛が冷たくなることを教えておられました(マタイ 24:12)。終末に何もしなければ、教会らしさを大きく失うのです。教会において「互いに~し合う」ことを三度も繰り返し、かつ「祈りのために、心を整え身を慎み」(7)と教えます。祈りのため、すなわち神との交わりのために整える必要があるのです。神との間も、兄姉との間も交わりを絶やしてはならないのです。第一の実践は「互いに熱心に愛し合う」ことです。この実践がないところでは、互いの欠点ばかりが見えて、さばいてしまう思いが支配しがちです。そうならないようにかえって距離を置きます。「愛は多くの罪をおおう」とあるのは、終末にはクリスチャンも罪を犯しやすい状況になることが前提にあります。しかし悔い改めたなら赦しなさいということです。第二の実践は「つぶやかずに互いに親切にもてなし合う」ことです。終末ではクリスチャンの生活にも変動が生じて来るでしょう。今もそうなりつつある不自由さ、不便さ、コロナの影響もありましたが、意思疎通の行き違いなど。要するにつぶやき要素が増えるのです。しかし教会では逆に、兄姉たちが生活上困ることが出てきたら、神の家族として物資や献金など、もてなす実践が求められます。第三の実践は、賜物を用いて互いに仕え合うことです。そうすることでキリストと神があがめられます(11)。教会は大きく分けて「語る」と「奉仕する」の二つの賜物が与えられています。語る人が偉いのではなく、語る神のことばが大事にされなければなりません。奉仕する人が偉いのではなく、奉仕させる神の力が優れていることが自覚されなくてはいけません。そこには人の栄誉が入り込む余地はありません。主は教会に本物を求めます。その本物は互いに~し合うという実践で証明されて行きます。過去においてもそうですが、本物ではないものはなくなっていき、真実だけが残るのです。