2023年4月16日 説教テーマ「何人かでも救いたい」

私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。 ローマ11:24 ローマ人への手紙11章7-16節 パウロは同胞であるイスラエル人の救いを、心を痛めながら願っています。彼らは、イエスが救い主であることの預言を聖書が明らかにしているのに、完全拒否しています。パウロは彼らの拒否の理由を9~11章で語っています。彼らの罪は「自分の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(10:3)ことです。彼らの特権(選民、律法、契約)を誇り、自らの善行を神の前に持って行き、義と認めてもらおうとしているのです。「わたしはあわれもうと思う者をあわれむ」(9:15)神の主権を無視した行為は赦され難いものです。「神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません」と自問自答したパウロですが、そんなことはないというのなら、何があるのでしょう?神のお考えがあります。神は彼らを「頑なに」し(7)、「鈍い心と見えない目と聞かない耳を与え」(8)、「つまずき」(9)をお与えになりました。倒れるためではありません。そのことで、異邦人に救いが及ぶためです。さらには救いが異邦人に及ぶことで、彼らにねたみを起こさせるためです。旧約聖書を見ると、神がねたみを引き起こされていることがわかります(申命記32:21)。神でない偽りの神々に民が移ったことが原因です。もしこのねたみが罪からのものであれば、相手への怒り、嫉妬で終わるでしょう。しかし神のねたみは民に対する真剣な愛のあらわれであり、計画性のあるねたみです。彼らをねたんだ神は、異邦人に救いの恵みを与えることによって、逆にイスラエルの人たちにねたみを起こさせようとしているのです。それは彼らに、ご自分のねたむほどの愛に気づいてほしいからです。神は彼らにねたみを引き起こさせることによって、主の救いがもたらされるとお考えなのです(ご計画)。さて、神の救いのご計画、方法に異議を唱える方が或いはおられるかもしれません。しかし、そもそも救いに与る権利を何一つ持っていないのが私たちです。なぜ私たちが救われたのでしょう?「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、…」この神の主権を認めるとき、ねたむ神がわかるようになります。恵みによって救われた私たちは、救いにおける神のお考えを知っておかなければなりません。その責任は必ず問われます。