2023年4月2日 説教テーマ「死は勝利にのまれた(2) 」

しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 Ⅰコリント15:57  キリストが来られて、朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着るとき、聖書に記されたみことばが実現します。パウロはホセア書13章14節を引用しています。この箇所は、神が「よみの力から彼らを贖い出し…」と民への祝福と訳すこともできれば、「よみの支配からわたしは彼らを購うだろうか(いや決して贖わない)と民へのさばきと訳すことができます。私たちが着目すべきは、どちらの訳か?ではなく、神が死に向かって、「おまえのとげはどこにあ るのか」と命じておられるところです。その死が力を発揮できるのは神の命令ないしは許しのもとです。つまり神は死よりも強いのです。神が死を完全に支配しているがゆえに、イエスを死者の中からよみがえらせ、また私たちに朽ちないからだを与えることがお出来になるのです。ホセア書を見てわかるように、死は神の怒りとさばきの現れほかなりません。しかしキリストが来られてからは、神はその恵みの力によって死を打ち滅ぼし、死者からの復活を約束してくださっているのです。その違いをもたらしたのがキリストの死と復活です。キリストにより死の持つ意味と力が全く違ったものになったのです。私たちに対する復活の約束が実現するとき、つまり「死は勝利に呑み込まれた」という聖書が実現するときは終わりの日のときです。その時に死の力は無力化されます。パウロが「神に感謝します」(57)と言っているのは、終わりの日の勝利を見つめてのことです。この復活の希望とおりに生きる時、私たちの生活は変わります。困難があろうとなかろうと、堅く立って動かされることのない生活となります。それはいわゆる世の成功ということではありません。動かされず堅く立つのは、神に喜んで仕えるためのものです。復活の信仰に立つと主にお仕えしたくなるのです。王の王、主の主として国を完成されるお方の子どもとして、その御国に向かっているのですから、主に仕えることは以前よりも容易なことになるはずです。また、幸いなことは、キリストに結ばれている労苦は無駄になりません。無駄にならないとは、朽ちてしまわない、或いは滅んでしまわないことです。朽ちないところへつながる労苦は一つも無駄になりません。主にあって共に労苦しましょう。