2023年4月9日 説教テーマ「見ずに信じる者は幸いです」

『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』 ヨハネ福音書20:27 ヨハネの福音書20章24-31節 「週の始めの日(日曜日)」にイエスは死者の中からよみがえられました。イエスはその日の夕方に弟子たちに現れ(19)、翌週の日曜日にも現れました(26)。キリスト教会が日曜日に教会に集まって礼拝をささげるのは、イエスが日曜日によみがえられたからです。イエスが弟子たちに現れた時はいずれも戸には鍵がかけられていました。イエスと同じ目に会うことを恐れてのことですから誰も入って来られないように施錠したのです。ところがイエスは「彼らの真ん中に立ち」ました。このことが示しているのは復活のイエスは物理的にも空間的にも、さらには時間的にも超越しておられるということです。着目すべきは不思議な復活体ということよりも、キリストの新しい臨在の仕方です。イエスは今この時も信じるあなたとともにおられることを認めることと思います。 クリスチャン人口が少ないとはいえ、日本各地にイエスを慕う人たちがおり、地球の裏側にもいます。そのだれもが「イエスは私とともにいる」と信じているのは事実で、イエスが復活されなかったら成り立たないのです。弟子たちの真ん中に立たれたイエスは「平安」を約束されました。この言葉は「安らぎとか安息」の意味ではありません。それらは一時的な休息的な意味合いのもので、ここでは人間の実存を脅かす不安と恐れに打ち勝つ力としての平安を約束されました。恐れの感情がひとたび私たちを支配すると、生活上で多くの力を失います。罪とセットの恐れと不安は人間である以上付きまといます。ではイエスはどうやって、その平安を与えたのですか?平安があるようにと言いながら、イエスは手と脇腹の傷跡を彼らに示されました。それは復活されたことを示す前に、私たちがとてつもなく罪深く、救いようがない存在であることを示していることを忘れてはなりません。イエスの釘を打ち込まれた後、槍でさされた脇腹の傷跡を触って見なければ信じないと言ったトマスはその代表者のようなものです。そのような者のためにこそ、イエスは十字架で死なれたのではないでしょうか。信じないことに伴って恐れと不安が来ます。しかし最後にトマスはイエスを神と告白して信じましたが、本当に傷に触れたのでしょうか?いいえ。そうする必要がありませんでした。彼はイエスの語られたことばを信じたのです。そうしたら、イエスの平安がすぐさま支配するのです。あなたも。