2023年5月21日 説教テーマ「あわれみに基づくふさわしい礼拝(2)」

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 ローマ12:1 神のあわれみに対して感謝の応答をするのがクリスチャン生活(実践)です。最初に勧められている実践が、あなたがたのからだを神に喜ばれる聖なるささげ物としてささげることです。「からだ」とは、からだも心も含めた人間全体のことで、そのからだをもって日々の具体的な生活を意識しています。つまり、日々の営み一つ一つにおいて自分を神に献げて生活することが勧められているのです。私たちの生活の土台である神のあわれみ自体が具体的です。御子イエスキリストが、肉体をもった人間としてこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。まさにからだを張って深くあわれんでくださったのです。その方に応答する私たちの生活も、からだをもって生活する日々の生活において自分を神にささげるのです。「献げる」とは、「傍らに置く」という元の意味があります。そのことから、神のかたわらに自分を置いて、神に自由に使っていただくことを献げると言います。ささげるからだは「生きたささげ物」でなければいけません。いけにえなのだから、自分の考えも生活も捨てる?!ということではありません。罪に死んでいた者が、キリストの死と復活によって、新しく生きる者となったのですから、キリストにある新しさであり、喜びに満ちた生き生きとした様のことを「生きた」と言っているのです。献身には喜びがつきものなのです。その生きたささげ物は「聖なる」ものでなければいけません。聖なるとは神のものとして区別されているという意味です。この世の用途に用いるものから神のために用いられるものへと区別されることを「聖なる」と言っているのです。神にささげるにあたって、汚れていてはいけないから、正しい生活をしようということではありません。そもそも汚れていた者をキリストにあって神が区 別してくださったのだから、感謝をもって用いていただこうとすれば良いのです。そうすれば神に喜ばれます。このからだをもって生活する日々において、神のあわれみによってこの世から取り分けられた私たちは、感謝の応答として自分をささげるのです。それをふさわしい礼拝と言っています。クリスチャンとしての生活は神を礼拝することと切り離すことは出来ないのです。