2023年5月7日 説教テーマ「あわれみに基づくふさわしい礼拝(1)」

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます…。 ローマ12:1前半 ローマ人への手紙12章1節 1~11章まで、福音についての教理的な教えが展開されてきました。12章からはそれに基づく信仰者の生活のあり方が教えられています。例えば、「…昼らしい、品位のある生活をしようではありませんか」(13:13)、「信仰の弱い人を受け入れなさい」(14:1)など、いわゆる倫理的な実践です。それらを教えるにあたって、パウロはまず「ですから、」と述べています。真理を阻む人間の罪に対する神のさばきから始まり、その罪から救うためにキリストの贖いが語られ、罪が赦されるだけではなく、御霊により神の子どもとされ、将来御国を相続する祝福が語られてきました。そういったすべての恵みが、これから語られていく勧めの根拠或いは土台となっているのです。クリスチャン倫理の土台は、神のあわれみです。私たちに与えられた救いが神の愛とあわれみによるなら、救われてからの信仰生活もあわれみによって支えられるのです。私たちの肉の弱さは救われる前も後も変わりません。これらの事から言える一つのことは、信仰生活の倫理的な事柄が救いの条件を満たすものでは決してないということ、またクリスチャン倫理は、それを行うことが出来れば神に認められ、出来なければ不合格(救いから落ちる)というものでもないということです。改めて考えたいのですが、なぜクリスチャン倫理が求められているのでしょうか?なぜ品位ある生活をし、なぜ信仰の弱い人を受け入れるのでしょうか?それは、あわれんでくださった神に感謝を表すためです。単純な答えですが極めて重要です。私たちはクリスチャンとして変えられたから善い行いをするのではありません。それが倫理の目的ではありません。あわれんでくださった神への感謝として倫理的なことに取り組むのです。あわれみと倫理との関係を分離させてしまうと、感謝がなくなり、善い行いに欠ける兄弟姉妹を見るとさばきたくなるでしょう。そこに自由はありません。しかし神のあわれみを出発とする信仰は、信仰生活をもっと自由にします。だれかにキリストの福音を信じてもらいたいという伝道への思い入れも、神のあわれみを出発とする福音理解から来るのです。あわれみの神に拠り頼む生活をすれば、結果として倫理的な生活が伴ってきます。「神のあわれみによって、…勧めます」の「勧める」という言葉は「傍らに呼ぶ」、或いは「励ます」という意味もあります。自分の罪故に弱り、落ち込んでいる者を力づけ、あわれみに支えられて感謝の生活を送ることができるようにしてくださいます。