2023年8月13日 説教テーマ「愛における負債」

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する人は、律法の要求を満たしているのです。 ローマ13:8 ローマ人への手紙13章8―10節  福音に基づくクリスチャンの実践として、社会的責任を果たすことが教えられました。きょうの教えのところは方向が変わります。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」(8)この部分は前節からつながっている教えですが、そのあとです。「ただし、互いに愛し合う事は別です」何が別なのでしょう…?互いに愛し合うことにおいては借りがある、負債を負っていると聖書は述べています。しかも完済不可能な借りです。ここで語られている「愛」は「アガペー」の愛です (ギリシャ語)。無償、無私の愛、敵を愛する愛がこれです。ほかに「フィレオー」は、条件付きの愛、「エロス」は奪う愛、自分本位な愛です。敵をも愛する無償の愛を実行することは、クリスチャンにとって負債を負うことであり、決して払い切ることのできないものです。しかしイエスは互いに愛し合うことを、私たちへの戒めとして与えています(ヨハネ13:34)。私たちが愛する対象は隣人です。何かの必要を抱えている人たちです。誰が隣人なのかということよりも、誰に対して隣人になるのかということが聖書の求めるところです。ルカ 10:27-35を見ると、よくわかります。怪我人(ユダヤ人)の横を 3 人の人が通ります。祭司、レビ人は同胞です。なぜ彼らは通り過ぎて行ったのでしょう?彼らは怪我人をかわいそうに思ったけれども、礼拝に仕える立場として、血を流した怪我人に触れることは出来なかったようです。彼らは律法に従ってそうしたのですが、見捨てて行ってしまうようなことが許される律法なのでしょうか?3 人目の人は、本来はかかわりたくない敵対同士のサマリア人です。ですが、すぐさま助け、大きな犠牲を払っています。隣人を愛すること、互いに愛し合うとはこういうことだとイエスは教えます。 律法の中心である十戒のうちの4つの戒めが13章9節に引用されています。これらは隣人を愛しなさいということばに要約されるものだと教えます。姦淫するなという戒めを見ても、イエスは情欲を抱いて異性を見るなら、既に姦淫を犯していると教えます。このイエスの水準で隣人を愛することはできるのでしょうか?いいえ、決して出来ません。罪ある人間のうちには無償の愛(アガペー)がないからです。勘違いしてはなりません。私たちに愛がないから、イエスキリストの救いが必要だったのです。十字架に張り付けにし、「救い主なら、自分を救え」とののしった人たちのために、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)ととりなした無償の愛の持ち主の救いが、私たちには必要なのです。その方が私たちに、同じ愛をもって愛することを求めておられるということは、できるようにしてくださるから求めておられるのです。どうすれば?「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ 13:14)との指示があります。キリストが持っておられるご性質を身に付けることです。それは私たちの力の及ぶところではありません。聖書の指示に従いましょう。隣人とかかわる願い や動機さえ変えられるでしょう。