2023年8月27日 説教テーマ「弱い立場の者を受け入れよ」

・・・しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるのです。 ローマ14:4 ローマ人への手紙14章1―12節 「信仰の弱い人を受け入れなさい」ということが、互いに愛し合うことの実例として挙げられています。具体的に受け入れるとは、見下さないことです(3)。これをクリスチャンはキリストを着ることで実践していきます。信仰の弱い人とは、2節から言うと、野菜だけを食べている人、すなわち肉を食べるべきでないと考えている人です。この背景には、キリスト信仰に出会う前の宗教的理由があったと考えられます。しかし、この人がキリストによって救われて、信仰生活を送る中で、やはり肉は食べるべきではないと強い主張を持つようになったのです。本来聖書は、「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もない」というのが教えです(Ⅰテモテ4:5)。信仰が弱い或いは強いというのは、キリストによってどれだけ自由を与えられているかということです。キリストの十字架と復活による無償の救いに信頼して、そこに与えられる自由が生活に現れている人が信仰の強い人です。自由の根拠が弱い人が信仰の弱い人です。肉を食べないことが信仰者として生きるための一つの支えとなっている、その人を受け入れよと聖書は要求しています。その信仰の弱い人も、信仰の強い人をさばいているようです(3)。その人に対して、「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか」と当時の奴隷制度を例に、人をさばくのは、よその家のしもべをさばくのと同じだと。「あなたは肉を食べる自由な信者をさばいているが、彼らはあなたの家のしもべであるとでも言うのか」と。彼には自分の仕える主人がいます。そこでの働きの善し悪し、彼が立つか倒れるかは、彼の主人次第なのです。それと同じように、クリスチャンの行為と生活についても主人である主イエスが決定されます。「しもべは立ちます。主は彼を立たせることがお出来になる」と断言します。信仰者は神との交わりの中で立つことが可能となり、交わりを失ったところで倒れるのです。そのどちらかになるのを決めるのは、信仰が強いか弱いかによるのではありません。その人が立つことが出来るのは主人であるイエスの恵みと力によるのです。私たちがどんなに弱く、主のために良い働きが出来なくても、主の恵みによって立たせてくださるのです。その根拠はイエスの十字架と復活です。4節の「立つ」は復活用語です。死からのよみがえりとしての「立つ」です。この福音理解が養われるなら、相手を見下すこと、さばくことから解放されます。