2023年9月17日 聖書講演会 後悔のない人生「最高の愛」

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ3:16 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16:26)ここで語られている「自分のいのち」とは「永遠のいのち」のことです。永遠のいのちを失うとすれば、たとえ全世界を手に入れたとしても無益であることを聖書は述べています。聖書は後悔のある無しの前に、人生が地上的、限定的または天上的、永遠的かを問うています。 もし人の命とその人生が地上的、限定的であったら、一つでも多く得をする人生を送ったほうが悔いがないでしょう。旧約時代にイスラエルの王をつとめたソロモンという人は、一つでも多く得をする人生を試した人です。知恵、快楽、富を極め、自分のためだけに生きるために、宗教や道徳も極めた人でした。しかし彼の結論は「空の空」という有名なことばで、すべては空しいというものでした。聖書に見る人のいのちはこの地上で終わるものではありません。究極的に言うならば、死は終わりではないということです。人にとって死ほどふさわしくないものはなく、死は本来あってはならないものです。なぜなら、罪のもたらすものが死であるからです。その理屈から言うと、もし人に罪がなければ死はないということになります。イエス・キリストが十字架にかかられて死なれたのは、人々の罪を代わりに負われたためです。そこにもたらされた祝福は赦しを越えた罪のない状態、つまり死のない状態、永遠のいのちです。これが天上的、永遠的な人生であり、いのちです。人が何をしても得ることのできないものであり、神の愛が人に向けられたゆえに、無償で与えられるものです。その愛のあらわれがイエスキリストの十字架です。キリストは死なれましたが、三日目によみがえられました。罪と死に打ち勝たれた証拠として、肉体をもってよみがえられました。人に求められていることは、キリストが私の罪のために十字架で死なれたこと、三日目によみがられたことを信じることです。もし信じるなら救われます。自分のいのちを地上的、限定的にのみ捉えるなら、その時点で後悔が発生するでしょう。そうならないために、聖書に秘められている可能性を最初から否定するのではなく、考える余地を残しておくならば幸いです。