2023年10月22日 説教テーマ「共にあずかり、共に生きる」

彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。 ローマ15:27 ローマ人への手紙15章22 33節 22節以降はパウロのこれからの計画について述べています。ローマにある教会に行くことは長年切望して来たことですが、何度も妨げられて来たと繰り返し言っています(1:13、15:22 22)。その妨げの中には不当な逮捕や暗殺計画によって命を狙われることもありました。しかしパウロに悲壮感はありません。阻まれたら失望はしたでしょうが、失望で終わらないのです。なぜそうなのか、パウロの「妨げられた」ことの理解は、「神によるもの」だからです。それが敵の妨害、思わぬアクシデントであっても、そこに神のかかわりを認めていました。妨げられたことは神のみこころ(深いお考え)と受け止めたのです。「…パウロは御霊に示されて…エルサレムに行くことにした。…ローマも見なければならない」(使徒19:21 21)このように彼は既に神のみこころを示されていたのです。ですからその時を待ちました。 いよいよその時が近づいて来たようで、その思いはローマの兄姉たちへの訪問に留まることが出来ずに、ローマを拠点として、彼らから援助を受けてイスパニア(スペイン)への伝道を展開したいと願っています。これはパウロの切迫した使命の自覚です。使徒として異邦人へ福音を伝える使命を担っているのはパウロだけです。刻々と迫って来る万物の終わりという自覚も含めて、彼には時間がないのです。そうであれば、私たちはもっと時間がないはずです。 パウロのローマ訪問は実現しました。しかしそれは、ローマ帝国における囚人のひとりとして護送されて行くという、彼が決して思い描くことのできない神のお考えのもとにです。しかし、それで良い!というのがパウロの信仰の素晴らしさです。驚くべきことは、ローマ行きの前に、「私はエルサレムに行きます」があることです。彼のいるところ(恐らくコリント)からローマへ行くよりもはるかに遠いのです。代役はいたはずです。いや、パウロでなければならなかったのです。異邦人教会で集めた献金を、ユダヤ人のエルサレム教会に届けることは大きな意義があります。元々ユダヤ人のものであった神の福音の恵み(霊的なもの)に、異邦人たちが共にあずかり、共に生きるというものです。異邦人たちが霊的なものをユダヤ人たちから頂いたことに対して、物質的なもの(献金)でユダヤ人たちを援助するのです。両者の間にずっと動かなかった隔ての壁を打ち壊すことは、神の救いの計画の根幹にあるものです。最終的に神の家族として、その計画の完成をパウロは神と共に望み見ているのです。