2023年11月5日 説教テーマ「主と共に苦しみを負う」

...プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました... ローマ16:3,4 ローマ16章1-16節 この手紙の最後に、パウロがローマの教会にいる知人たちに、名前を挙げて「よろしく」と挨拶を送っています。フィベはローマにではなく、ケンクレアという所にいます。彼女に対しては挨拶を送っているのではなく、ローマの教会の人たちに彼女を歓迎するようにお願いしています。というのも、彼女がこの「ローマ人への手紙」を届けるのです。パウロは先にエルサレムに行くので届けられません。フィベは時間も生活も犠牲にして、危険が伴う千キロ以上のローマへの旅に出るのです。大変な労苦が伴いますが、彼女は力強い働きでパウロを支える支援者であるので喜んで奉仕します。プリスカとアキラは、エペソでパウロのいのちを救うために、いのちを危険にさらした夫婦です。エパイネトはアジア州で救われ、ローマに移り住み、教会に仕えている協力者です。マリアは恐らく迫害で非常に苦労した人です。アンドロニコとユニアスはパウロと共に投獄された人たちです。トリファイナとトリフォスは労苦し、ペルシスは非常に労苦しました。ペルシスは恐らく奴隷としてペルシャからローマに連れて来られた人です。その他の名前の人たちは、外国名であることから、奴隷の立場である可能性が高いです。これらの人たちの共通点は、自分の労苦を「キリストにあって」負っているということです。キリストと結ばれたところの労苦を負っているのであって、イエスの苦しみと繋がっているという意識です。聖書信仰はキリストを信じることで苦しみがなくなるというものではありません。ペテロは自身の手紙の中で、奴隷の立場にあるクリスチャンたちに、不当な苦しみをも耐え忍ぶように勧めています(Iペテロ2:18-25)。そう勧める根拠は、何の罪もないキリストが、私たちの罪を負って、不当な苦しみを受けて十字架で死なれたというものです。このキリストを人々に明らかにするために、先に召されたのです。Iテサロニケ1章3節から言えることですが、信仰から出ない働きは、キリストと結ばれていない働きで苦々しさしか残りません。愛から生まれないただの労苦も同様です。キリストに対する望みに支えられていない忍耐も、苦しいだけの忍耐となってしまいます。キリストに対する望みとは、私たち自身が復活するという望みです。その望みがあるから信仰の先輩たちのように、非常な労苦でも耐えられるのです。「キリストにある」ということが、どんなに恵みであることか!信じる者にはこの事実が歴然とあるので、労苦を恐れる必要はありません。