2024年4月14日 説教テーマ「お心一つで」

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。 マルコ 1章41節 マルコ福音書1章40-45節 №10 ツァラアトは皮膚の末梢神経が侵される感染症の病気です。痛さ、熱さの感覚が失われ、手、顔に障害が起き、変形する場合もあります。かつて日本においても不治の病として恐れられ、隔離政策が設けられたほどです。ユダヤにおいては病気としてというよりも、宗教的な意味合いとして汚れた者と見なされました。人々の前に出なければならないときには「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした(レビ 13:45)。ユダヤの人々はツァラアトを神の罰と見なしてしまい(本来違う)、家族との隔離だけではなく、社会とも隔離しました。イエスのもとに来たツァラアトに冒された人は、イエスのうわさを聞いたのでしょう。彼は雑音交じりの噂話から、神としての権威をイエスに見、「ひざまずいて懇願」したのです。彼は病を癒してほしいと願っているのですが、イエスに告げた言葉は願いではありません。「お心一つで…」これは「もしあなたが望むなら、私をきよくすることができます」という意味です。これは救いにおいて重要な真理で、彼が願うことよりも前に、イエスが彼をきよくすることを望むかどうかというイエスのご意志のほうが重要であることを示しています。彼の求めが先で、それに応じた出来事ではなく、イエスがあわれみをもってきよめてくださるご意志によって起こった出来事なのです。「深くあわれみ」(41)は先行したイエスのご意志そのものです。神の御子としての権威 をもって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言されたイエスが、その宣言に基づいて苦しみの中にある者に対してあわれみのご意志を示してくださったのです。ツァラアト患者に触れることは律法によって禁じられているにもかかわらず、イエスは手を伸ばして彼にさわりました。原語では「さわる」の部分が「つかまえて」となっています。何の躊躇もなく、ぎゅっと手を取ってくださったのです。「信じる」ことは、確かに信じる人の主体的な行為です。しかし、この方がその人を救うというあわれむご意志があって、初めて信じるということが成り立つのです。そもそも、私たちは「自分の背きと罪の中に死んでいた者」(エペソ2:1)であって、健全な意志を働かせることさえできない存在です。主のあわれみに感謝を表しましょう。まだイエスを信じておられない方は、聖書が語っている「信じる」ということがどういうことかを考えましょう。