2024年4月7日 説教テーマ「宣教を共に担う者のために」

イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」   マルコ1:38 マルコ福音書1章35-39節 №9  早朝イエスは祈りの時間を持ちました。祈りは朝一番ということを聖書が教えているわけではありません。もっともユダヤの一日の始まりは日没からです。大事なのは神と一対一の時間を持つことです。文脈を大事に見ながら、イエスの祈る姿から、弟子として歩む方向性を確認していきます。その場合ルカ福音書の並行記事は参考になります。比較の一つに、ルカ福音書にはイエスの祈る姿が記されていませんが(ルカ4:42)、マルコ福音書にはあります。マルコには祈る姿から伝えようとしていることがあるということです。第二に、ルカでは群衆がイエスを捜していて、マルコでは弟子たちが後を追っています。この違いは大きな意味を持ちます。イエスが見いだされた後の、イエスが語る相手が変わってくるからです。第三の比較として、ルカではイエスが群衆に向かって「ほかの町々にも…福音を宣べ伝えなければなりません…」と語っています(ルカ4:43)。町に留まって欲しいと願う群衆に対して、ご自分の使命ゆえに、彼らの町に留まることができないことを話しています。それに対してマルコ福音書では、弟子たちに対して「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから」と、一緒に福音を伝えようと、重要な宣教のプランを話しています。救われた人は皆イエスの弟子です。弟子に求められることはイエスについて行くことです。その方向性はイエスの宣教の働きです。群衆には「いて欲しい」という別の方向性があります。大きな違いです。 さて、マルコ福音書のこれらの文脈から、イエスが祈られた祈りの中に、同行していく弟子たちのための祈りが含まれていたことは間違いないでしょう。イエスと同行するということは、宣教において神の権威と力が伴うということです。イエスが一緒におられて成り立つ働きが宣教です。群衆の受ける喜びもありましょう。イエスと同じ志を持ち、同行できる喜びとを比較し、群衆であるべきか、弟子であるべきかを考えましょう。