2013年3月4日 使徒の働き ー神を喜ばせようとー

ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。

使徒25:19

講解説教80
使徒の働き25:1-12
 パウロは彼の死を望む人たちがつきまとう大きな困難の中にいます。事態は変わらず先が見えないような状況の中で、パウロは不思議な確かさを抱いています。人は自分が不利な立場になると知っていたら、自分の得策を考えます。公正な立場が求められる総督さえも人の歓心を買おうとしました。逆にパウロは不利になることが分かっていても、断るべきことを断り、主張すべきことを主張しました。これはすべて神から出たものです。彼は一度勇気を失いました。しかしそのとき、主がそばにいることを確認させられ、彼に対するみことばの約束も確認しました。ですから、パウロは人にではなく、その神に取り入ろうと努力しました。

 私たちが人を恐れ、人に取り入ろうとしてしまうのは、その時、みことばの約束を持っていないからです。そういう時はみことばどころではない!というのが正直なところでしょう。パウロはなぜ、神にだけ心を注ぎ、着目することができたのか、それはパウロの最大の主張である「イエスが生きている」(19)という確信を抱いていたからです。パウロの敵対者は「死んでしまったイエス」理解ですから、対立の原因はここにあります。主が生きておられることを確信しないではいられないから、その主の約束を信頼することが可能となり、人に取り入る必要がなくなるのです。

 私たちも主が生きておられることはわかっています。このことが頭の中での理解や、心の内に生きている、としていたら間違いです。私たちの生活の場である学校や職場、地域でこそ、主は生きておられることを明らかにしなければなりません。それを望んでいるのは主ご自身です。ですから「人を喜ばせようとしてではなく…神を喜ばせようと」(Ⅰテサロニケ2:4)しましょう。それが自分自身の最大の喜びへと至ります。