2013年5月19日 真実の姿を知ってから -中畑基師-

ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。 
マタイ19:22


マタイの福音書19章16ー22節

(祈り会 創世記25:27-34 より)
 神の約束と祝福はアブラハムからイサクへと引き継がれましたが、罪も同時に引き継がれました。親は子を自分の好みや都合で愛し(28)、兄エサウは活発ですが肉の欲のままにふるまい、弟ヤコブはおとなしいですが、与えられた知恵を悪用しました。イサクは父アブラハムの罪の弱さをそのまま引き継いでしまっています(26:7)。

 皆罪の弱さのうちに歩んでいます。だからこそ神の救いが必要です。その中で聖書はエサウの罪を指摘します。彼は長子の権利を軽蔑した「俗悪な者」(ヘブル12:17)と紹介されています。また、「彼には心を変えてもらう余地がありませんでした」(ヘブル12:17)つまり、悔改めの機会を故意に得なかったのです。霊的なものに無関心な者に対して聖書は厳しくさばきます。一方弟ヤコブはどうかというと、兄の祝福をだまし取った彼のほうが俗悪です。しかし聖書はそのように指摘しません。後にヤコブは神に向かって「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と訴えます。祝福を奪うほど神を切望していたのは、自分の罪深さを自覚していたからです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)という御国の原則をヤコブに見ることが出来ます。兄エサウは神を必要としなかった。弟ヤコブは神を必要とした。

 自分の都合のいいように神を必要とする人は多いでしょう。そうではなく、救われなくてはならない愚かな存在だからこそ、神を謙虚に求める心の態度我必要なのです。