2014年4月20日 主の復活記念礼拝 -イエスキリストの福音-

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
Ⅰコリント15:51、52


コリント人へ手紙 第一15章50-57節

 聖書が大切なこととして伝えているのは、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また三日目によみがえられたことです。これらのイエスの目的は、私たち人間を罪から救うためです。罪とは?…もし困っている人にわかっていて思いやりを示さなかったら、重大な罪であると聖書は言っています。なぜなら、人はそもそも愛する存在に造られているからです。「罪とは律法に逆らうこと」(Ⅰヨハネ3:4)で、突き詰めると律法は「隣人を愛すること(人を思いやる)」です。神の似姿として愛する存在に造られた人間が、愛することを故意にしないことは重大な罪であり、神への反逆です。この赦されがたい罪の結果、人は「愛すること」において完全に失敗をした者となってしまいました。もう自己中心的にしか生きることができず、大切な人との関係は壊れるばかりです。何よりも、人は自らを救うことができなくなりました。つまり死です。人の死の根本原因は肉体の弱さや寿命にありません。神に罪を犯し、神にさばかれた結果、死を受け取ったのです。ではどうしたら罪から救われることができるのでしょうか?人を思いやるという、神の要求する律法、「愛すること」を完全に全うしなければなりません。しかしどう考えても不可能です。唯一の方法はキリストです。キリストは愛に失敗し、自分勝手な私たちの罪のために十字架で死なれました。そして三日目に、傷ついた肉体のままよみがえられたのです。信じ難いこの事実が、罪の勝利を完全に達成してくださいました。このキリストを信じるならば罪から救われます。そしてキリストに似たものとされて、真の思いやりと愛に生きることができます。もう一点キリストに似ることで重要なのが、キリストのよみがえりの肉体を私たちも持つ者となります。私たちも死んでもよみがえるのです。