2015年12月27日 ルカの福音書 私たちの罪をお赦しください

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します…。
ルカ11:4前半


講解説教No.58
ルカ11章1-4節

 上記の祈りをあまり祈る必要はないと思われる人がいるかもしれません。しかし主の祈りは「祈るときには、こう言いなさい」と主が命じておられるように、例外なくクリスチャンに必要な祈りです。自分のうちにある感覚で祈る必要性を判断するのではなく、イエスの教えを軸として動かさず「こう祈ることを必要としているのだ、自分に罪があることを認めていかなくてはならない」とすべきです。「罪とは何か?」ということを自らの力で認めるのではなく、聖霊の働きによって認めていかなければならないほど人は弱いのです。ですから聖霊の助けを頂きながら罪理解を深めて行きたいものです。私たちの知るところと聖書の語るところの「罪」という言葉の認識のずれもあるかもしれません。聖書は罪を①的を外す(本来なるべきものになれない②踏み越える(正と不正の一線を越えてしまう)③謝って踏み外す(ついうっかり)④不法(ルールを知っているのに犯したいという衝動を抑えられない)⑤負い目(支払うべき義務を怠る)と非常に範囲が広いです。このように私たちは天の父に、或いは他人に対しても負い目をたくさん負っているのです。もう一点大事なことは、(神に)赦されることと(他人を)赦すことの関連です。赦しを請う祈りは「私たちも負い目のある者をみな赦します」と他の人を赦すこと密接な関連があるのです。これは、神に赦されていることを心から知っている人は、人を赦すのに何も障害がないと言いたいのです。赦されることと赦すことが完全に調和されています。私たちは神の前に赦されなければ絶対に存在し得ない者です。それがわからないと人を赦し思いやることは出来ません。自分の罪を神に告白しながら一方で人を赦すことを拒むなら、「私は他人にするつもりはありませんが、私にはそれをしてください」と極めて調和のない矛盾したことを祈っていることになるのです。これは偽善です。主の祈りをする人は、他の人を赦すという強いチャレンジを受けます。逃げずに主が祈れと命じられたこの祈りを祈ろうではありませんか?そうすれば人を赦すことのできない自分の無力さにぶつかり、こんな身勝手な私を主が赦してくださったのだと主の愛と赦しに気づかされるのです。そうすれば、人を赦すことができるようになります。