2016年7月10日 ルカの福音書 -キリストの弟子の歩む道-

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
ルカ14:26


講解説教No.80
ルカ14章25-35節

 本日はイエスの教えから「弟子とされた私たちが信仰にしっかり留まり、最後まで弟子として歩むために必要なこと」について学びます。必要なことを教えられたら歩み出しましょう。このテーマを教える為に二つのたとえが語られています(28-32)。塔を建てようとする人のたとえと、他の国と戦いに赴こうとする王のたとえです。塔完成の費用計算、戦いに勝ち目があるかの戦略会議…そういうことをしっかり準備しないで建て始めると中途で物笑いの種になり、戦いでは悲惨な結末を迎えることになると教えておられます。いずれのたとえも「まずすわって(腰を据えて)」と、最後までやり遂げるための準備が教えられています。イエスの弟子として歩むことにおいても、腰を据え全力を集中させて準備しなければなりません。何かをしながらは出来ません。その準備とは、「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を憎むこと、自分のいのちまでも憎むこと」です。マタイ10章37節のイエスのことばを合わせて考えると、「イエスキリストをより愛し、より大切にする」と教えていることがわかります。この教えは33節の「自分の財産全部を捨てる」につながります。文字通り捨てることではなく、自分の持っている物、蓄え、それが金銭的、物質的なものだけではなく、見えない精神的なものも含めてですが…そういうものを拠り所とすることを止めなさい!との教えです。捨てないことは、それに頼り、安心を得ようとしていることであって、イエスの弟子として生きてはいません。準備ができていないのです。イエスは最後まで弟子として歩んできて欲しいと心底願っておられます。ですから、自分に問いましょう。「ほんとうに愛し、拠り頼んでいる相手はだれか?自分の持ち物?人?仕事?学ぶこと?…それともイエスか?」 塩が塩けをなくしたら何によっても味付けが出来なくなりますから大変です。クリスチャンが失ってはならない塩けは、イエスを愛し、拠り頼んで生きることです。もし途中でイエスよりも他のものを拠り頼むようになれば、塩けをなくし、外に投げ捨てられます。神が捨てるとは書いていません。クリスチャンを見ている未信者が捨てるのです。中途半端だからです。この世のはかない罪の行いにも向かわず、とはいえキリストの示す弟子の道を歩もうとしない中途半端さです。味のない塩なので捨てられるのです。これは警告です。自分の十字架を負ってイエスについて行きましょう。すでにイエスが背負って歩み抜いてくださっていますから。十字架を背負った先に復活の希望があります。