「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、」
ルカ19:41
講解説教No.101
ルカ19章41―48節
まことの王として、まことの神としてエルサレムに入場されたイエスが神殿で行われている光景をみて感情をあらわにされました。このイエスの涙と怒りは今の私たちにも向けられています。神殿にいる商売人たちを追い出しただけではなく(45)、両替人の台、鳩を売る者たちの腰掛けまでも倒しました(マルコ⒒:15)。彼らは地方から礼拝に来る人たちの使用している通貨を神殿用に両替したり、ささげる鳩を売り礼拝のための便宜を図りました。しかしその行為はイエスが「強盗の巣」と非難したように商売と化し、神殿が礼拝ビジネスとなったことに怒り、悲しまれたのです。イエスは大声で「(神殿は)祈りの家でなければならない」と旧約聖書のイザヤ書のことばを引用されました。イザヤの時代も民のささげる礼拝が形式化してしまい、預言者イザヤが警告したのです。「祈りの家」の意味は「ただ神を愛し信頼し、生きて働きかける神と向き合う」ことです。みことばを聞き、奉仕も怠ることなく行うその本心が自分の願いを叶えるためであったら、その動機は礼拝ビジネスと変わりません。礼拝において本気で神と向き合っているでしょうか?神を自分のために使っているような礼拝になっていないでしょうか?さてイエスは涙を流されました。民が平和への道をわきまえないことを嘆かれました(42)。この後(紀元70年)エルサレムはローマ軍に包囲され徹底的に破壊されます。その原因はイスラエルにあります。平和をわきまえず反乱を起こしたからです。イエスの涙の根本的理由は、平和の根源であられる「神の訪れの時」を彼らが知らなったことです(44)。入場もそうですが(37,38)、罪と死によって失われた私たちを救うために神が人となって訪れてくださいました。この神の訪れを信じ受け入れ、神と向き合うことが祈りの家にふさわしいのです。教会に呼び集められた人たちが、神のことばを聞き、その教えを実行しと、神との交わりに生きるのです。礼拝が一週間の生活の中心に据えられることによって、神とともに歩む生活となります。