イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」
ルカ20:2
講解説教No.102
ルカ20章1—8節
「何の権威によってこれらのことをするのか?」私たちもこの問を発することがあります。「あの人の言葉を本当に信頼できるのか?」イエスが毎日神殿で教えておられたこと(19:47)、神殿から商売人たちを追い出されたこと(19:45)を、ユダヤの指導者たちは、何の権威によって?と憤慨していました。彼らの問いに対してイエスは逆に一つの問いをもってお答えになりました。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。」イエスに対して問うことは、イエスから自分に問われることです。私たちは信仰のことで問いを持ちます。「主に信頼ってどういうこと?」「この試練をどう受け止めたら?」これらを時に教会に尋ね、直接神に尋ねます。このときわきまえておかなければならないことは、信仰の事柄は何かの知識について先生や先輩に質問し、説明を受けてわかるようなたぐいとは違うということです。信仰に関する問いに答えを得るのは、私たちが神から問われることで得ることができます。信仰に関する疑問に答えを得て、納得したら解決が生じるのではありません。その問いに対して逆に神から問われていることを知り、それに誠実に答えていこうとするところに生じるのです。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのか、人から出たのですか」(4)は、それは神からの権威か、人の権威によるものか?という問いです。権威ある言葉は神からの権威による言葉のみです。それはイエスが語っていた「福音」です。人の救いのための十字架の死と復活のことです。人の権威は人間の限界と罪に基づく権威です。イエスの権威は永遠のいのち、死を支配した無限の力と支配に基づく権威です。もし主の権威を認めないなら、「わからない」と自分の保身に走った指導者たちのようです。大事なのは自分のことだけで神の権威などどうでもよいのです。しかしもし主の権威を認めるなら、試練のことで主に問うている人は、他の誰よりも慰められるでしょう。なぜなら主の権威は試練にも死にも勝つからです。