2017年7月16日 ルカの福音書 ー彼らをお赦しくださいー

民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
ルカ23:35


講解説教No.123
ルカ23章32~38節

きょうの聖書箇所はイエスがお受けになった侮辱がクローズアップされています。十字架刑の真ん中にイエスがおられる理由は「これはユダヤ人の王」との罪状書きによることでしょう。見物人がこれを見たときには、罪人の親玉としか映らないでしょう。ひどい侮辱ですが私たちの罪を負われたという意味では事実となるのです。次に、十字架の下では執行人の兵士たちの役得としてイエスの着物を分けています。これは詩篇にある預言で数百年も前から侮辱されることがわかっていたのですから驚きです。次に、指導者たちと兵士たちの侮辱の言葉です。指導者たちは、「他人を救ったのだから自分を救え(できなければ救い主ではない)」ということ、兵士たちは「王であるなら自分を救え(できなければ王でも何でもない)」といった感じです。この侮辱は彼らの意思からのものでしょうが背後にサタンの存在を感じずにはいられません。肉体的苦痛よりも侮辱の苦しみのほうが耐えられない、というのが聖書の見解です(箴言18:14)。人は苦しくて叫ぶか、逃げるか、或いは人に当たって紛らわすかしてもがくのです。この時イエスは忍耐されました。そしてその忍耐の中で、彼らを赦してほしいと祈られたのです。その主張の根拠は「彼らは、何をしているのか自分でわからない」です。逃げた弟子たち、執行人、あざけった人たちも「彼ら」に含みます。彼らの罪のためにイエスが苦しんでおられることを知りません。イエスの果てしのない苦しみの裏返しは、私たち一人一人が犯した罪によりものです。今私たちが受けている様々な苦しみも罪から来るものです。もしその苦しみの最中で十字架のイエスキリストを思い起こすことができるなら、それは苦しみの意味を見出したことになります。