2017年7月23日 十字架の七つの言葉 入江一義宣教師

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
ルカ23:46


ルカ23章32~49節


(7/22カルバリの丘バプテスト教会訪問時の集会でのメッセージより)

 教会にとって一番幸せなことは、「神のみこころを行うこと」ただし神との交わりを必ず伴ってのことです。神のみこころとは聖書全体から見て、罪人を救うという宣教です。(マタイ3:13-17から)イエスがヨハネから罪の悔い改めのバプテスマを受けたことは、ご自分を罪人の位置に置かれて、十字架に備えるという父のみこころを行ったということです。そしてみこころを行うところには必ず父との交わりがあります(17)。(マルコ1:35-39から)ここでは、「近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を」というみこころを行うイエスの姿があります。前日にその町に福音をすでに宣べ伝えておられたのですが、町の人たちはもっと良くして欲しいとイエスを独り占めし、神の宣教路線から外れて行っているのが見受けられます。みこころから外れないために必要なことは祈りです。早朝から祈っておられたイエスの結果が別の村里への宣教です。大切なのはみこころを行うことと主との交わりとがセットになっていることです。祈りの答え(結果)よりも大事なこと(あえてそう申し上げる)は祈りそのものです。すなわち主との交わりです。祈りの答えは神と交わるための手段ととらえましょう。私たちが地上にいる間、主のみこころである宣教に従事するとき、主との交わりを絶やしません。主との交わりなしの宣教は使命のみであり、喜びは期待できません。自分にエネルギーのあるうちは、それでもやりがいがあるかもしれませんが、失敗すると目的を見失い悩みます。必ず主と交わることの伴う宣教を学び、学んだら即実行しましょう。ちなみに究極の主との交わりは直接イエスとお会いすることです。再臨の主を待ち望む人の宣教は祝福されます。