それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
ルカ23:53
講解説教No.126
ルカ23章50~56節
イエスの十字架の姿は、それを正しく見る人の心を動かします。すでに死刑囚のひとり、百人隊長がそれに該当しています。ここに登場するヨセフも心動かされ変えられた一人です。ヨセフは議員のひとりで地位も財産も持つ人でした。彼はすでに「イエスの弟子」でしたが、「ユダヤ人を恐れてそのことを隠して」いました(ヨハネ19:38)。そんな彼も一線を画して、議員たちの計画や行動、すなわちイエスを殺害することには同意しませんでした。これが今のヨセフの信仰の位置ですが、十字架の真意という点では理解不足です。十字架で死なれることこそ神のみこころであってそれを阻止することになります(マタイ26:51-54)。そんな彼がイエスが亡くなられる姿を通してほんとうのイエスと出会ったのです。彼はイエスから一歩の勇気を頂き、思い切って遺体の下げ渡しを願いました(マルコ15:43)。この行動は彼が律法に背いて汚れるだけではなく(民数記19:11)、社会的な立場を失い、人々から批判を受けることとなるでしょう。生活も大変になるかもしれません。しかし彼はそのすべてを失うことを惜しいと思わなかったほどに、イエスとの関係に生きることを選んだのです。このことから、イエスを信じて救われていることと、イエスとともに生きることは別であることが教えられます。イエスとともに生きる豊かさを持ちたいものです。結果としてヨセフには役割が与えられていました。イエスの死と葬りと復活の証人としての役割です。イエスを葬ることはこの時ヨセフにしかできませんでした。有力な議員の立場があったので遺体の下げ渡しを総督に直訴でき、金持ちであるために処刑場からすぐ近くにある自分の所有する新しい墓へ葬ることができました(安息日が迫っていたので葬るという時間の猶予がなかった)。私たちも「私でなければならないイエスの死と葬り、復活の証人としての役割」が必ずあります。その役割の前に、イエスと生きることを決意しましょう。