2019年6月2日 コリント人への手紙第一 -救いはキリストのみ-

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。  Ⅰコリント1:23、24

講解説教 №12
Ⅰコリント1章22-25節

ユダヤ人はしるし(奇跡)を求めました。「見たら、信じる」ことが出来るのでしょうか?イエスはカナの婚礼に始まり、ご自身の神としての栄光を現すためのしるしの数々を示されました。それを見て多くの人が「御名を信じた」(ヨハネ2:23)とあるのですが、イエスはそういう彼らを信じませんでした(2:24)。ギリシャ人は知恵を求めました。「知恵を持った人」のことを「ソフィスト」と言い、もともとは賢い人を意味していましたが、やがて議論を楽しむ人、話の上手い人を意味するようになりました。彼らの目的は人々からの賞賛です。そんな知恵に希望も救いもありません。しるしや知恵を求められても、それに応えるのではなく、ただ十字架につけられたキリストを宣べ伝えるとパウロは力強く宣言するのです。なぜなら、それは彼が考え出したものではなく、神のメッセージだからです。聖書を見ると、なぜユダヤ人が福音につまずいたのかがわかります。十字架はただのろい、そんな者に人を救うことはできない(申命記21:22,23)と理解したからです。しかし、イザヤ53章5節には「私たちのそむきの罪のために刺し通され」とキリストの受難がはっきり示されているのです。彼らのイメージからはずれた聖書のことばは都合が悪いので無視します。申命記21章のところを良く見ると、処刑されたあとに木に吊るされているのがわかります。死に値する罪を神に犯したことが呪われた者であり、木に吊るされたためではありません。木に吊る目的は、周囲の人がそれを見て、同じ罪を犯さないようにと戒められるためです。ですから、十字架のキリストを見たなら、自分こそ十字架で処刑されるに値する罪人だと戒められるためです。それが聖書の正しい理解の仕方です。その戒められた人の罪を赦すことができることを神の力と言います。その力が働き、赦しに基づく平安と自由を今喜んでいます。