2019年9月8日 コリント人への手紙第一 -私にならう者となってください-

私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。  Ⅰコリント4:14

講解説教№24
Ⅰコリント4章14-21節

「(コリント教会に)争いがあるようで」(1:11)と始まった、手紙の最初の主題のクライマックスの部分です。父親としてのパウロが愛する子どもとしての兄姉たちをさとすために、これまでのことを書いていると伝えました。その内容は結果として彼らがはずかしめられるほど鋭いものでした。その上でパウロは「どうか、私にならう者となってください」と切に願うのです。父の正しさ、立派さにならえとは言っていません。むしろ、キリストのために愚かで、弱く、卑しめられていることを(10)ならうように言っているのです。力強い伝道者としてではなく、自分の中に何の豊かさも持てず、弱さの中にひたすらキリストの力に拠り頼む者としてのパウロ、この世の人々からは愚かと侮辱を受けても、仕えることを止めないパウロの姿にならうのです。このためにパウロはコリントにテモテを送りました。自分自身が行くことの出来ない事情があったからです。テモテは「忠実な子」でパウロにならう生き方が出来ている人でした。それは「ことばではなく、力を見せ」ることが出来るということです。コリントの兄姉たちは言葉巧みに語りますが、その生き方は争い、ねたみがあるのですから変えられていないのです。力とは、キリストの十字架における神の力のことです。人の知恵による言葉は争いを生むものでしかありませんが、十字架のことばは新しい現実を生み出します。「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)とあります。主を喜ぶことが力、つまり力の源は自分の中にないのです。キリストの十字架による救いを喜ぶことにこそ、本当の力の源があるのです。『信仰によって、自分が強くなれば何かが変わる』と思わないように気をつけなければなりません。それこそコリントの兄姉たちが陥ったところです。この聖書の教えを自分のさとしとしてしっかり聞きましょう。