2019年11月10日 ー聖書が語る、『自分の弱さを誇る』とはー

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9



Ⅱコリント12章9節

人は普通、自分の強さを誇ります。競争社会で勝ち抜くためには当然の生き方でしょう。しかし、イエスキリストを信じてクリスチャンになると、生き方が変わります。弱さを誇るようになります。パウロはそれを繰り返し語り、しかも堂々と語ります。「…弱さ以外には誇りません」(12:5)「喜んで弱さを…」(12:9)その理由は、キリストの力が弱さのうちに完全に現れるからです。キリストの力が最も現れたところが十字架です。「十字架のことばは…神の力です」(1:8)キリストの十字架が何ゆえに力なのか?だから、教会は十字架を掲げるようになったということになるわけですが、ただ、十字架は死刑判決を受けた者のローマの特別な処刑法です。イザヤ53章3-12節には、イエスの十字架の預言が記されています。「さげすまれ、のけ者にされ、刺し通され、口を開かない、激しい苦しみ」など、十字架上のイエスは弱さでしかありません。当時無罪判決が言い渡されたにもかかわらず、イエスをねたむ者たちの執念で無惨にも十字架刑となってしまったのです。この処刑が特別なのは、人権を完全に無視した処刑だからです。本来死刑は死刑囚といえども、人間なので、人権を尊重して、誰も見ていない所で、なるべく苦しまずに息絶えさせるというものです。しかし、十字架刑は、手首、足首に釘を撃ち抜かれて木に掲げられます。すぐに死亡させないために麻酔効果のある酸いぶどう酒を飲ませられます。その目的は、町のだれもが見物できるためです。通りがかった人たちが「顔をそむけるほどさげすんだ」と預言されたとおりのことが起こったのです。「激しい苦しみ」というのも、肉体以上に、人格を破壊するほどの恥と侮辱を受けるのです。それでも、何一つ無罪の弁解をすることなく、「口を開かない」のがイエスだったのです。
なぜ、罪のないイエスが、激しい苦しみを伴って十字架を負わなければならなかったのでしょう?それは「多くの人の罪を負った」からです。これがキリストの弱さです。徹底的に弱くなられたことで私たちの罪を負うことが出来たのです。罪を負われたので、私たちの罪をお赦しになったのです。キリストだけが罪を赦すことが出来ます。これがキリストの力です。死んで葬られたキリストは、三日目に死者の中からよみがえられました。更なるキリストの力です。救いと赦しと永遠の祝福を与えることのできる力です。私たちも、自分の弱さのうちにこそ、キリストの力が現されます。弱さゆえに低くなり罪を赦すことができたキリストの力が現されるのです。