2019年11月3日 コリント人への手紙第一 -神の栄光を現しなさい-

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
Ⅰコリント6:20
 

講解説教№29
Ⅰコリント6章19-20節

 クリスチャンのからだは、聖霊の宮であり、自分自身のものではないとパウロは重要なことを語ります。「宮」は神殿の聖所で、神の臨在される神聖な場所を指します。私たちのからだが宮であるとするのは、神から受けた聖霊のゆえです。なぜ自分のからだが自分自身のものではないのかは、「代価を払って買い取られたからだ」と説明しています。買い取られたのであれば、それはその方の所有になるのは当然のことです。ここで私たちが知らなければならない聖書の真理は、自分のからだが自分のものではないことと、何の代価をもって払われたかということです。その代価はイエスキリストです。「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています…」とパウロはローマ1章7節で語っています。十字架の赦しです。故意にも不意にも罪を犯し、あるべき姿になることが出来ず、果たすべき義務を果たせない罪を犯し続ける者を、神はどうして赦すことが出来るのでしょうか?ダビデも「不法を赦され…主が罪を認めない人」の幸いを歌っています(詩篇32)。その神の「赦す」は「神の記憶から消し去られる」ことを意味します。消し去るのですから思い出して責めることができないのです。一点の罪も見逃すことの出来ないお方が、赦すことができたのは、ご自分のひとり子に人類のすべての罪を負わせたからです。それが十字架刑であり、ただ死ねば良かったわけではありません。肉体苦痛と精神的苦痛を必要以上に味合わせ、恥をさらしながら死んでいくことが十字架刑の目的です。その十字架から、私たちが負わせた罪がどれほど重く赦し難いものであったかがわかります。そして、こんな罪人なのに、「どうしても救いたい」という神の愛がわかります。このようにして買い取られた自分のからだをもって、喜んで神の栄光を現したいのです。