2020年3月22日 コリント人への手紙第一 -終末に生きる-

そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです…
Ⅰコリント10:1


講解説教№42
Ⅰコリント10章1-13節


 イスラエルの民がエジプトから救い出されることを例に、終末にどう生きたらよいのかを教えています。4節までに神の救いのわざが語られています。民がみな、その救いに与かったことが強調されています。救われたあとの40年の荒野の信仰生活において、主が昼には雲の柱、夜には火の柱となって、どのように歩んだらよいかを導かれました。「にもかかわらず」(5)と、ここでの核心部分である、私たちへの教訓を示します。「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました」出エジプトの救いは、来るべきキリストの救いの予型です。とすれば、荒野の滅びは、私たちを戒める予型の意味を持つのです。神の恵みを無きものにする4つの罪が挙げられています。①偶像礼拝の罪と②姦淫の罪は深く結びついています。民が踏み外した罪の問題を「民が、すわっては飲み食いし…」と出エジプト記32章6節を引用しています。偶像は自分勝手な利益を求める思いを生む、いわば肉の欲求から出たものです。利己的な利益の行き着くところは姦淫です。また、③主を試みる罪、④不平、つぶやきを言う者の滅びをパウロは警告しています。神の救いにより、自由と喜びに与ったにもかかわらず、肉の欲を満足させていないと言って、不平を言い、神を試みたのです。パウロはこれらを世の終わりに臨む私たちへの教訓として語っています。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」と自由と権利を得ている信仰の強い人へ警告します。この戒めで大切なことは、自分は大丈夫と言えるほど強くないと言うことです。キリストから離れたら何も出来ないことを普段から自覚することです。信仰の弱い人には、耐えられないほどの試練に会わせないと約束します。試練を避けて通れないというのが前提です。その信仰が本物かを主は試されるのです。