2020年4月26日 コリント人への手紙第一 -益にならない集まり-

ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。Ⅰコリント11:17

講解説教№46
Ⅰコリント11章17-22節

「私はあなたがたをほめません」とパウロは、コリント教会の主の晩餐の在り方を責めました。聖書の時代の主の晩餐は、愛餐(アガペーと呼ぶ)と言われる食事の交わりの後に主の晩餐が行われました(ルカ22:19,20 使徒2:42)。交わりの目的は食事を楽しむということよりも、交わりを通してキリストを覚える、崇めるためです。その最後に、十字架によって裂かれたキリストのおからだと、流された血を象徴する主の晩餐が行われたのはキリストとの深い交わりのためです。ところが、コリント教会の愛餐、主の晩餐の集まりは益にならず、むしろ害になっていると指摘されました。さらには集まりをするとき、分裂があるとも。交わるために集まるのに、交わりをしていなかったことになります。異教文化においても食事は重要でした(10:27参)。偶像にささげた肉を家庭で振舞い、ご利益が目的の集まりなので、食べて飲んでの宴会です。そういう地域にコリント教会は建てられ、異教習慣の中で生活して来た人たちが救われて教会に加わったのです。教会の中に異教習慣が流れ込む可能性はあります。私たちも、かつての生活習慣は異教文化の上に成り立っていたものです。信仰生活を送るということは、生活が変えられる、行動パターンが変えられるということです。コリント教会の主の晩餐について、褒められない根本的な理由は、聖書の教えに従おうとしなかった点です。「主から受けたことを、あなたがたに伝えた」(23節)とパウロは言い、「伝えます」とは言わなかったのです。すでに教え伝えていたものなのに、それに関しては従わなかったのです。恐らくかつての生活習慣が影響していたのでしょう。経済的に豊かな人たちが先に来て「我先にと自分の食事を済ませ…酔っている者も」という具合です。貧しい人たちは、奴隷の仕事などで来るのが遅かったのです。そこに分派が生じていたのです。パウロは「あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむを得ない」(19節)とまで言っていたのです。自分本位な幼子のような生活行動が変えられ、主のみこころを本当に知るには、分派もやむを得ないと、どこまでも教会の本質を見据えて建て上げる指導をしていたのです。キリストのからだである教会を建て上げるためには、痛みの伴う生活の変化が必要です。主はその責めを良しとされます。