2020年4月5日 コリント人への手紙第一 -他人の利益をこころがけなさい-

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
Ⅰコリント10:24


講解説教№44
Ⅰコリント10章23-33節

 8章からスタートした偶像にささげた肉について、食べるか否かの問題の結論は、「食べるにも飲むにも…ただ神の栄光を現すためにしなさい」です。クリスチャンに与えられている自由と権利をふさわしく用いて、日常のどんなことにおいても神の栄光を現すのです。そのことを「他人の利益を心がける」という表現を使って考えさせています。未信者の家に食事に招かれた場合、だれかが「これは偶像にささげた肉です」と言われたら、クリスチャンはその食事をどうするか、自分の信仰を現わさなければなりません。「この肉にはご利益があるから、ありがたい肉です」と、家の主人が食べることを勧めているとしたら?或いは、招かれた客の中に信仰の弱いクリスチャンがいて、「食べてもいいんですか?やめたほうが…」という意味で、偶像にささげた肉ですと言った場合、どうするか?いずれにしても、食べるかどうかの問題は、食べる側の良心の問題ではなく、相手の良心の問題として対処しなければなりません。その場合、聖書は「食べてはいけません」と教えます。その理由を聖書は、「自分の利益を求めないで、他人の利益をこころがけ」るためであると教えます。他人の利益を心がけることに注意しなければならないのは、すべてのことが徳を高めるとは限らないからだと言います。だれの徳でしょう?教会の徳です。教会の徳が高められ、教会が建て上げられ、育つのは、信仰の強い人たちの持つ自由と権利によるのではありません。自分の利益を求めず、他人の利益を心がける愛する行為によって徳が高められて行くのです。一般的に言えば、信仰によって与えられた自由と権利を保つことだけでも立派です。それを主張すればもっと立派となるでしょう。しかし聖書は、その自由を持った上で、他人の利益を心がけることが求められているのです。パウロはこの教えの流れで、「私を見ならってください」(11:1)と求めました。その模範は一度も自分の利益をもとめなかったキリストを見ならっているパウロを見ならってほしいということです。他人の利益と言ってもイエスは慈善事業をしたわけではありません。他の人を罪から救うところの利益です。
そこに神の栄光が現されます。食べるにも、飲むにも、すなわち、私たちのすべての日常において、他の人の利益を心がける働きによって神の栄光が現れるのです。