2020年5月24日 危機状況に備える(2)

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
ルカ21:13


ルカの福音書 21章12-19節

 世界には必ず終わりがあるという前提で、その前兆として地震や戦争、疫病が起こることをイエスは教えられました。もう一つの前兆として、天災、人災のすべてのことの前に、迫害の苦しみが起こると言われました(12)。迫害とはキリストを信じている、その信仰を理由として起こる苦しみのことです。世界の終わりの前には、天災、人災の苦しみと迫害の苦しみと2種類あるわけです。前者の対処は惑わされないのこと、こわがらないことでしたが、迫害に対する対処は、「忍耐によって、自分のいのちを勝ち取る」ことです(19)。「忍耐」は、「何かの下に留まっていること」を意味する言葉です。留まっていることが忍耐の性質ですが、そうすると、逃げ出すこともできる性質と言えます。ウイルスのような天災は逃げようがありません。しかし、信仰による苦しみは、逃げ出そうと思えば、逃げ出すことができるものです。教会にその人を留めておく権限などないのです。しかし、神を信じる者として、イエスに従う者として、留まり続けること、それが忍耐です。「いのちを勝ち取る」とは、信仰者としてのいのちであり、イエスキリストをあかしする人としてのいのちです。もし迫害下に留まり続けるなら、それが「あかしをする機会」(13)となるとイエスは言われました。あかしとは、真の救いであるイエスキリストを語り伝えることです。迫害にあっても逃げ出さないのは、主を信頼するところから来る忠実さによるものです。狂信でも、盲信でもありません。私たちは主がこの世界を始められた方だと信じています。その方がこの世界を終わらせると信じています。「髪の毛一筋も失われない」という主の守りを信じています。その状況が良かろうと悪かろうと、信頼しているがゆえに、その方に従わない理由はないのです。このことから、自分の頑張りという忍耐ではないことがわかります。これがあかしする機会になるのは、迫害の中で忠実に従う者に、神が特別に取り扱ってくださるからです。あかしすべきことばは神が用意されます。だから、「どう弁明するかは、あらかじめ考えない」ように指示されています。マタイ福音書では「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だから」(10:20)と言われました。この方が話されるのだから、「どんな反対者も、反論も、反証もできない」わけです。今後、私たちは天災や人災だけに備えをするのではありません。
迫害において、あかしをするという重要な備えをしていきます。