2020年7月26日 コリント人への手紙第一 -御霊の賜物について(9)~平和の神のもとで~-

それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。 
Ⅰコリント14:33


講解説教№57
Ⅰコリント14章26-40節

  コリント教会の礼拝が混乱していることは、26節からわかります。礼拝が自由なスタイルであったことは認められていたようです。しかし「自分はこういう賜物を持っている」と自分のことばかり主張する点が問題視されました。そういう彼らに、「そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい」と指示しました。具体的な注意点は、異言問題では(27,28)、沢山の人たちが礼拝で異言を話していたようなので、話すのは2,3人までで、順番に話し、さらには必ず異言を解き明かす人を着けるように言いました。もし解き明かす人がいなければ、黙っていなさいと。次に、預言についても注意点がありました。こちらも話すのは2,3人まで。語られた預言に対して、本当に神のことばかどうかを吟味しなければなりませんでした。吟味する人は教会のメンバーの人たちです。このことからも、預言の賜物は教会の皆が求めなければならないものであることがわかります(31)。また、次の人がみことばを話し出したら、前から話している人は黙るように指示しています。異言と預言の注意事項における共通点は、悪い意味では、自分が語ることにしか思いが行かなくなるという自分本位さです。良い意味での共通点は、確実に神のことばが語られること、未信者に理解できる神のことばが語られる、そうなるための注意点です。神のことばが語られるだけでは不十分です。礼拝において、異言も預言も語る人の人数制限があり、黙っている人たちが必要になるということは、神のことばをしっかり聞く状態が保たれていなければならないということです。このような礼拝或いは集会を、平和の神は望んでおられるのです。妻たちは黙っていなさいという指示は(34)、11章に登場する「かぶり物」を拒否する婦人たちの主張が関係しています。婦人たちはそのことを端に、礼拝の場において、疑問に思ったことを口にしていたと考えられます。この点で批判されるべきは、婦人たちが話すことではありません。文脈から言えることは、語られるべき神のことばよりも、自分本位な人間のことばが中心になっているという点です。結論は、神のことばが語られている礼拝、初心の人たちに理解できる神のことばが語られているかどうかということです。自分たちの信仰、賜物、奉仕ばかり主張しているようですと、それが成り立ちません。平和の神が望まれる礼拝に、また、預言のことばは常に求めましょう。