2020年8月30日 シャローム~コロナ禍の混乱の中で~ 「生きる意味を知る時」

伝道者の書7章1-4、27-29節  「シャローム」は、平安、安らぎの意味が一般的ですが、「勝利、救い」や「充足(生きる意欲)」という意味もあります。コロナ禍でこそ、生きる意味を知り、意欲に満ちて歩みたいものです。絵本作家の五味太郎さんは、コロナ禍の学校の休校は「むしろチャンスだぞ」と言っていました。「本当は何がしたいのか、ニュートラルに問いやすい」と、本質的なことを考える意味でのチャンスでしょう。ソロモンも、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」(伝道者の書7:2)と、生きる本質に心を留めることの利点を言っています。他にも多くの格言を考え、知恵と道理を求め続けました。彼が考えに考えを重ねて出した結論は、「私はなおも捜し求めているが、見いださない…神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた」(7:29)でありました。 「多くの理屈」とは、「複雑な考え方」のことです。なぜ人は学び、なぜ人は働くのか?なぜ生きるのか?その理屈が根拠に基づいた正しい道筋が立っていないということです。彼が考えた数々の格言はすべてへ理屈だったと自分で言っているのです。「人はなぜ死ぬのか?」に正しい理屈を持っている人がどのくらいいるのでしょう?「死んだら何もなくなる」という人は多くいます。その根拠もないでしょう。納得のいく正しい答えは、実は見つけることが出来ないということに気づくのです。聖書はそのような人間の弱さの原因を「罪」と言っています。行為としての罪もそうですが、そもそも人は知らないうちに罪を犯すという人の本質的な状態としての罪を聖書は指摘するのです。この罪が人の心も肉体も壊すのです。その破壊が死です。つまり、人の罪の結果が死であるというのが聖書の見解です。人が一番壊されたものは、生きる意味、生きる目的といった見えない霊的ないのちの部分です。生きる意味を見いだせない原因がわかりました。その原因である人間の破壊をもたらした罪を解決しなければならないのです。その解決が、イエスキリストの福音です。すなわち、キリストは私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられました。霊の復活ではなく、肉体をもっての復活です。それが罪による人間の破壊の根本解決となる唯一のものです。死んだ人がよみがえるなんて理解できないという浅はかな考えでは駄目です。この聖書の論理でないと、罪が解決されません。解決の領域は人間の理性を超えています。そこは信じるべき事柄です。もし信じるなら、コロナ禍にあってこそ、生きる意欲に満ちることを経験するでしょう。