2021年4月11日 神を恐れかしこんで

愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで 聖きを全うしようではありませんか。 Ⅱコリント7:1 コリント人への手紙第二講解説教№17 Ⅱコリント6章16節-7章1節 教会における不信者(ニセ使徒)との分離によって、聖なる神との関係改善が、コリント教会の兄姉に求められています。もしそうすれば、神が彼らの父となり、彼らを神の息子、娘とするというのです。この約束を与えられているのだから、汚れから自分をきよめ、聖きを全うしようではないかと、パウロは勧めています。神の家族とされたことをヨハネ1章12節では「特権」と言っています。これは能力や力が与えられることではなくて、権利、資格のことです。その権利があるゆえに神の子どもであるということです。神に罰せられてしかるべき者に、神は「和解を受け入れてほしい」と十字架のイエスを差し出してくださいました。赦さてはならない者が赦されただけではなく、子として受け入れられたのです。そうであるから、自分をきよくせよと言われるのです。パウロは「聖きを全うしようではありませんか」と果たすべき責任があることを述べています。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめる」(Ⅰヨハネ7:1)とあるように、私たちは立場的にはきよくされています。その立場を生活においてもっと体験していこう、と言うことが勧められているのです。そこで大事になって来るのが「神を恐れかしこむ」ことです。様々な人間関係で尊厳と服従が重んじられない今日、クリスチャンも神に対しての尊敬が薄れ、神の権威をないがしろにする傾向があります。優しい愛の神ばかりが強調され、威厳に満ちた神を見ようとしません。聖書はどちらも事実として述べています。神への恐れは「罰せられる」イメージを持ちやすいですが、罪人に和解を懇願される方が罰することは矛盾が生じます。正しい神への恐れとは、「罰せられても仕方ないこの私を、こんなに愛してくださっておられる」と思い抱くところに生じる恐れです。「愛に満ちておられるのに、罰する神と見ていたことに気づくところの恐れで、必ず神への感謝に結びつく恐れです。 私たちには霊肉の汚れがくっついていますが、神の家族の約束が与えられていることを知っている人は、おのずと自分をきよくしていきます。