2021年5月9日 与える恵み

私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わり(奉仕)の恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。 Ⅱコリント8:3、4 コリント人への手紙第二講解説教№21 Ⅱコリント8章1節-5節 8,9章と「献金」についてまとまった教えが記されています。直接的には、エルサレム教会の貧しいクリスチャンたちを援助するというものです。献金の話は、互いが信頼し合っていて成り立つもので、そのとおりに、パウロとコリントの兄姉は7章に至るまでに信頼を回復していました。献金については、第一の手紙16章で扱っていました。しかしその後に、偽使徒たちが教会に入り込み、パウロの信用を落とすようなことがあったので、献金が中断してしまったのです。それを再開しましょうというのが今回の言及です。最初に触れたことが、マケドニヤ諸教会の献金例です。マケドニヤ地方にはテサロニケ教会がありますが、特に迫害の激しいところでした。ユダヤ人の嫌がらせで仕事を失ったために「極度の貧しさ」という現状があったと考えられます。にもかかわらず、なぜささげることが出来たのでしょうか。なぜそれを「神の恵み」と言えるのでしょうか。ふつう、神が豊かに恵んでくださったことを恵みというのではないでしょうか?ここでは反対の意味として、自分の手元から離れ、与えていることを恵みと言っています。そこには溢れる喜びも。パウロはそれを「聖徒たちをささえる交わりの恵み」と表現しました。「交わり」の部分を「奉仕」とも訳します。いずれも「コイノニア」という元の言葉から来ています。「一つになること」を意味します。分け与えるというプロセスを通して一つになります。 人間は神と一つとなるように、或いは神と交わるように造られました。ところが罪を犯して神と断絶し、一つ(一体)を失ったのです。その破壊された状態を回復するのが神の救いのご計画であり、人間の救いです。そのため神はひとり子イエスを分け与えられました。 ここに動かぬ大きな原則があります。それを教えられたとおりに行ったのがマケドニヤ諸教会の献金行為です。その行為よりも大事なのが、分け与えて一つとなる(交わる)コイノニアです。献金をささげるという奉仕に参加することによって、エルサレム教会と交わりたいと願った彼らがいたのです。分け与えて交わることの模範はイエスキリストです。キリストの恵みを知っている人は、与えることのほうが恵みであるという事実に生きるのです。