2021念6月13日 学んで確信したところにとどまる

けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がどの人たちからそれを学んだかを知っており、       Ⅱテモテ3:14 バイブル・カンファレンス Ⅱテモテ3章10-17節 パウロはテモテに対して、「聖書は~です」(15-17)と聖書の大切さを詳しく教えます。これは聖書についての講義ではなく、テモテへの激励の言葉です。テモテは伝道者としての働きに対して「おくびょう」(1:7)になっていました。コリントの手紙でもわかるように、パウロは偽使徒と呼ばれる人たちに攻撃されていました。「推薦状(世の権威)がないからパウロは使徒ではない…」パウロに忠実なテモテも恐らく攻撃されたのでしょう。元気を失ったテモテをただ励ましたのではなく、元気の出どころが「聖書」であることを告げたのです。聖書の重要性を語った根本的な理由は、「終わりの日に困難な時代がやって来る」(3:1)からです。ここで語られていることは、世の中の困難さではなく、教会における困難さです。言い換えるならば、神のことばにおける困難さです。パウロ自身がすでに、その困難を経験し、「…アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました…」(1:15)、「…ヒメナオとピレトはその仲間です。彼らは真理からはずれてしまい…」(2:17,18)このように、終わりの日には霊的反対勢力が猛威を振るうことを、聖書は教えています。これを「承知」(3:1)しつつ、学んで確信したところにとどまるのです。単純なことですが、聖書はこれを一貫して教えます(Ⅰヨハネ2:24、へブル3:14)。間違ったところには決して確信が持てません。聖書にのみ確信しとどまることができるのです。困難な時代には『聖書のようなもの』がはびこりますから、なおさら聖書そのものにとどまる必要があります。パウロは、聖書そのものに信頼と確信を置いて良いのだと励まして、16,17節を語っています。「神の霊感」は神の息が吹き込まれたという意味で、つまり御霊ご自身が根源となった、神のことばそのものが聖書であるということです。そこには神の御考え、神のご意志、神のご計画が書かれているのです。各著者を通して、一つの誤りもなく書かせ、すべて神のことばそのものとして書かれているので、信頼と確信を置くことが出来ます。聖書は、神の真理、神の正しさを知ることのできる「教え」として有益で、その教えが正しさから逸れたことを示す「戒め」として有益で、また、逸れたことを示すだけではなく、自分のあり方から神のあり方へ変えていく「矯正」としても有益であり、変えられた私たちが神の正しさの中を歩み続けて行くことを示す「義の訓練」としても有益なのです。聖書は、この現実の中で神の望まれる姿に変えることのできる力を持つのです(変えるのは神です)。それが聖書です。そこにこそ、確信をもってとどまりましょう。