2021年6月20日 感謝の結実

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。              Ⅱコリント9:11 コリント人への手紙第二講解説教№26 Ⅱコリント9章9-15節 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる」(9)は、詩篇112篇の引用です。分け与えることによって霊的祝福を天に蓄えることができるという意味です。神の祝福は目に見えるものと見えないものとがあります。私たちが確認したいことは、目に見えない祝福が永遠のものであり、目に見えるものよりもはるかに優れたものであるということです。112篇は律法の教えに基づいて作られた詩です(申命記15:7-11)。同じくこの詩は旧約の人物をイメージして作られていると考えられます。ボアズです。貧しいナオミとルツへ分け与えた人物です。ルツは生活のために一日中畑で落ち穂を拾おうとしましたが、外国人であるためいじめられました。貧しい者には落ち穂を拾う権利が律法でさだめられていました(レビ19:9,10)。これを見たボアズは刈り取った束から彼女のためにわざと落とすことを命じたのです(ルツ2:15,16)。この主の教えに従った霊的祝福は、ルツ、ボアズの家系から救い主メシヤが生まれるという計り知れない祝福です。このように旧約から一貫して、神はご自分のみことばに従って、分け与える者を祝福してくださるのです。分け与える行為に霊的祝福が与えられる力、効力があるのではありません。そもそも、蒔く種も実りも、糧としてのパンも備えられるのは神です(10)。その神が、他の人たちに分け与える私たちに、確かな報酬を刈り取るように配慮してくださっているのです。私たちが分け与えると、祝福の大きな機会と結果をさらに与えてくださるのです。 分け与えることを通して、与える側も受ける側も霊的祝福が与えられます。その祝福とは、神への感謝です。エルサレム教会は、コリント教会の分け与える奉仕のわざを見て、福音によって変えられたコリントの兄姉の従順さを知ることとなります。実はエルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたちは、コリント教会の異邦人クリスチャンたちに対して、「野蛮で私利私欲な異邦人たちは変えられるのだろうか?」という偏見と差別を持っていました。それを打ち砕くチャンスとして献金を用いたのです。まさに、分け与えて一つとなるという原則に従った機会だったのです。この献金行為に、愛を見ることができ、互いに神への感謝が生じ、真の一致が実現するのです。