2021年6月27日 見えない戦い

私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。 Ⅱコリント10:4 コリント人への手紙第二講解説教№27 Ⅱコリント10章1-6節 10章からはコリントへの手紙の背景となっている偽使徒の存在、その対処について切り込んでいきます。パウロはコリントの兄姉と面と向かっているときはおとなしく、離れていると強気になる二面性があるようです。パウロが強気になる相手は信頼関係を回復させた兄姉ではなく、パウロを「肉に従って歩んでいるかのように考える人々」(2)に対してです。「考える」という言葉は、人の思い、思考のことです。5節で「さまざまの思弁(論理的な思考だけで物事を認識しようとすること)」と取り上げているように、強気でふるまわなければならないのは、人の思いなのです。パウロは3節で、人間的な弱さをもって歩んではいるが、その人間的な弱さで戦ってはいないということを述べています。人間生来のものではなく、クリスチャンとしての戦いの武器があるということです。その武器は「肉の物でなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるもの」(4)です。この「要塞」が「もろもろの思い、理屈、思弁」を意味することからも、クリスチャンの戦う対象は人の思いであることが明らかです。例えば、コリント教会には「死者の復活」を信じない人たちがいました(Ⅰコリント15:12)。キリストの復活を信じないクリスチャンはいないはずですが、そのキリストを根拠に信者も復活することを否定したのです。彼らの解釈は「霊は復活する」で、あくまで肉体の復活は否定します(参 Ⅱテモテ2:17)。パウロがギリシャのアテネの人々に説教をしたとき、「死者の復活」について触れると、ある人は「あざ笑い」ました(使徒17:32)。「あざ笑う」は「抵抗する」という意味合いがありますが、人間の知性の中には、こうした抵抗の壁があるのです。その壁は神のことばの真理に逆らうすべての思い、考え方です。自分を立てる知的な誇りです。パウロがコリント教会を建て上げるときにぶつかったのは、この人間の知恵、思いです(Ⅰコリント2:1-5)。この思いを人に吹き込んでいるのはサタンです。ですから、この戦いは見える戦いではなく、神とサタンとの戦いなのです。戦いの目的は、神の知識に逆らって立つ高ぶりを打ち砕き、あらゆる人のはかりごとを取り押さえ、キリストに服従させるためです。私たちはサタンが用いる思考という敵に勝てません。神のことばだけがそれを打ち破ります。