2016年3月6日 ルカの福音書-背負いきれない重荷-

しかし、イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。
ルカ11:46


講解説教No.66
ルカ11章45-54節

「負いきれない荷物」とありますが、これは律法学者たちが律法を解釈した言い伝えのことです。例えば律法には「姦淫するな、殺すな、むさぼるな…」とあり、これらを解釈し、守り方を教えたり、或いは守っているかどうかの判定もしていました。この言い伝えとしての律法は、神の意図から離れてしまい、守る人々に重い荷となりました。本来の律法の理解は「どんな戒めも、隣人を愛するということばの中に要約されています。」(ローマ13:9)とあるように、律法は他の人を愛することを求めています。盗んだりむさぼったりする人に隣人を愛することはできません。そうではなく自分の利を求めず他の人に与えることが愛することです。『それはいじめに当たるのか、当たらないのか?』と言う場合、たとえいじめに当たらないとしても、その発想自体愛に欠けているということです。神はそのいずれもさばかれます。真の律法は人の心の奥底まではかられ、さばくのです。律法の真意をねじ曲げてとらえると、いつも他人と比べるようになります。自分が他人より上にいれば良い人間だと安心し、他人より不利になるとすぐ不安に陥ります。また他人より上にいて安心を得たいので、他人のあら探しが始まります。弱点を見つければそれを責めて優越感を抱こうとします。イエスは預言者たちを殺した彼らの先祖たちの血の責任が今問われていると言われました。彼らは責任を果たさなければなりません。しかし、このあとイエスはどうなっていったかと言うと、憎しみに満ちた彼らはイエスを殺しました。彼らに責任が問われているのに、その責任を果たすべく、神のさばきを受けたという聖書の記録はどこにも見られません。責任は果たされていません。ところがイエスご自身が十字架上で、私たちの罪の責任を果たされました。このお方を信じましょう。自分の罪を示された方は素直に悔い改めましょう。