2017年2月26日 ルカの福音書ーキリストはあなたの主ー

ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』 
ルカ20:42,43


講解説教No.106
ルカ20章41—44節

 イエスの時代、ユダヤ人たちはメシヤを待ち望んでいました。ローマの暗黒の支配下にあった彼らは、いつの日かメシヤがローマを滅ぼし、独立国家を復興してくださると期待するようになりました。またそのメシヤはダビデの子孫から現れると。ところがイエスはその期待を打ち壊されました。詩篇を引用して、ダビデがメシヤを指して「私の主」と言っているのだから、メシヤは「ダビデの子(子孫)」であるはずはないと言われたのです。ただもう少し聖書を見てみると、「きょうダビデの町で…救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)ダビデの町で生まれた救い主と紹介されているので、ダビデと何らかのかかわりを持っていると考えられます。またイエスがエルサレムに王として入場された時、「人々は道に自分たちの上着を敷いた」(ルカ19:36)と。これは敵を打ち破って凱旋する王を喜んで迎える作法です。つまり人々はダビデ王のような英雄としてのメシヤを期待していたのです。ところがイエスが王として行ったことは、自分の利得だけを考えて神殿で売り買いをする人たちを追い出しました。指導者たちは何の権威で?と詰問を。その流れでイエスは「キリストはダビデの子」ではないと。私たちはイエスをだれだと言うでしょうか。自分の願いや期待から聖書とは違うイエスを作り上げていないでしょうか。ダビデのように「私の主」と呼ぶことができるには、私たちの考えの及ばないところでキリストに出会うことです。死者の中から復活したイエスと出会うことが必要です。上記の聖句(43節)は、父なる神がキリストに敵への勝利、復活の完全勝利を与えてくださることを歌ったものです。イエスの弟子のひとりトマスは、「救い主が十字架で死ぬはずがない」と堅く信じ、十字架で釘づけにされたイエスの手の傷痕に触れて見なければ、復活など決して信じないと。彼の前に現れたイエスは一言「信じる者になりなさい」彼は「私の主、私の神」と叫びました(ヨハネ20:28)。